宗教の三大要件は「教祖」「教典」「教義」と言われていて、日本神道は「教典」はかろうじてあり、教祖は「皇室」と言えるにしても、教義がありません。
とはいえ、「返し矢を恐れよ」とか「一つ火は忌むべきである」となどは教義と言えなくもない。
また、江戸時代の漢学者、秦鼎は『一宵話 』に、こんなことを書いています。
「瓊々岐尊・火々出見尊・葺不合尊、此三御代合わせて一百七十九万二千四百七十余歳也。其内、火々出見尊は、五百八十歳、其御子葺不合尊は、父の尊に準らへば、五百歳所にもあらんか。此両御代合わせて一千一百歳足るたらずなれば、瓊々岐尊御一代にて、御寿、一百七十九万一千歳余り受け給へり。
父の尊はかく御長寿なるに、御子の御時、俄かに御短命にて、僅かに五百八拾歳、御父子の御年、一百七十九万一千八百歳計の違ひなるは、けしからぬ御事なり。其源は、瓊々岐尊へ、大山祇神より、御女二人奉り給ひしに、姉磐長姫は、貌醜く、妹木花開耶姫は、容美かりしかば、妹を留めて、姉を帰し給ひしを、姉の姫も、父の神も恨み詛ひ、姉を留給はば、御子孫の御命、磐石のごとく常盤ならんに、さなかりしから、此後、木花の移落がごとくなるべしと申給ひし。此を日本紀に、これ世人短折縁也とあり。
かけまくもかしこき事ながら、今人の短命なるは、邇々芸尊の御物ずきより起こりしは、いともいとも口をしき事なりかし。神代より、物忌ひする事は、種々伝はりて、たとへば、伊奘那芸尊の御事より、世の人、一火を忌むは、これその縁也、天稚彦が事より、反矢を忌むは、これその縁也。と様に、つぶらにしるされて、いむべき筋は、後の世までも忌む事なり。
邇々岐尊の御事は、人の寿命にかかり、重き事の限りなれば、世人、美女を忌むは、これその縁也。としるさるべきに、さることもなく、又代々の天皇にも、此御さだのあらぬは、いかにぞや。今人の物忌をするも、大かたかかる様にて、忌むべき事は忌まず、忌まずともあるべきあたりを、ことごとしう忌むめり。神代よりの風俗にやあらん。いと浅まし」
つまり、「美人を妻にするな。特に天皇は!」とおっしゃってます。
なぜならば、皇祖ニニギが醜いイワナガヒメを妻にせず、美女のコノハナサクヤヒメを妻にしたから、100万年以上生きていた人間が、たった50歳で死ななくてはいけなくなったから。
「美人を妻にするな」
「返し矢を恐れなさい」
「一つ火はやめときなさい」
だけが教義の宗教って……私は好きですけどね(笑)
ただ、人が宗教にのめり込む理由の一つに、
「教え通りにやってればいいから」
ってのがあると思うんです。
「これさえやっておけば幸せになれる」
と言われたら、現実には全然幸せになってないのに、なんとなくすがってしまう。
ニュースで報道される宗教事件や洗脳事件では、そういう構図が見えてきませんか?
人がパワースポットに惹かれる理由も、多分そこなんだろうと思います。
「ここに行けば、幸せになれる」
「信仰とは何か」と聞かれたら、なんと答えますか?
小学館の日本大百科全書では、
「神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。信仰は個人生活を統合する中心の役割を果たすと同時に、その信仰の表現である信条、組織、制度などにより、共同体の生活を統合する活動の中心にもなっている。
幼児の母親に対する態度のように、人間と人間との間に形成され、相手の人格にすべてを一任する心的態度が信頼である。任せきるという点で信仰と共通するが、信頼の対象である人間は有限で究極的ではないから、相手の自由意志に任せる信頼は、つねに裏切られる危険と情緒的不安が付きまとう点では、信仰とはまったく異なる」
と解説されています。
平凡社の世界大百科事典ではこう。
「信仰は宗教の基礎概念であり基本態度であるが,それだけに定義の困難なものである。どの宗教にも崇拝対象があり祭儀行為がありながら,信仰はより自覚的な態度であるので,すべての宗教にこれがあるとはいえず,あってもさまざまの段階をもっている。ギリシア人は一般に信仰pistisよりも知識を重んじたので,信仰は知識以下で,臆測doxaと同じものとみなしていた。ギリシア人の宗教性は不死へのあこがれを基盤とするもので,その深さは悲劇における苦悩の意識や自然の底にあるデーモン的なものの発見などにうかがわれ,ソクラテスに見るように敬虔の情にも欠けることはない」
一般に、どんな辞典を調べても、一つの言葉に対する解説は似通ったものになりがちです。
ここまで内容がかけ離れた解説になるのって、珍しくないかな。
でもそれは人によって考え方が変わるからじゃなく、「切り口が無数にある」からだと思います。
信仰を説明するための切り口。
私はシンプルに、
「絶対的な存在に、いつも見られていると自覚すること」
だと思っています。
神にいつも見守られている。
そのかわり、いつも見張られている。
その「神」がどんな存在かによって、教義が変わってくるわけですが、たとえばイスラームの神様はとっても細かくて、
「この月には断食しろ」「豚食べるな」「巡礼しろ」
などと命令します。
ユダヤの神は、
「わし以外は拝むな、絶対」
ですね。
やはり一神教の神様は、言うことがはっきりしてる。
だけど多神教とか、汎神教になるとそうはいきません。
神様によって言うことが違いますからね(笑)
神道のような汎神教が、教義を持てないのは道理かなと。
そういうわけで、「守護神を持ちましょう」とお薦めするわけです。
でもその「守護神」の性格は個人個人で設定するので、教義も自分で決めなくちゃいけない。
そういうことをしたいと思う人って限られてるだろうな。
でもね。
そうやって自分で育てた「守護神」に護られてるのって、すごく安心するものですよ。
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