推古天皇ではなく、日本書紀の話になっちゃいましたが……。
実は、それくらい、推古天皇の事績って少ないんです。
日本書紀の推古天皇条は、ほぼ、聖徳太子の事績で埋まってる(笑)
むしろ興味深いのは、用明天皇条にあるでしょう。
用明天皇が即位しても、敏達天皇の殯は続いていました。
殯とは、本葬までの間、死体を棺に安置して、生者のそばに置いておくこと。
復活の願いと、死者との別れを惜しむための儀式だと考えられています。
通常、天皇の殯には、殯宮が建てられ、皇后や皇子たちが訪れて、別れを惜しんでいたようです。
敏達天皇の皇后であった推古天皇も、度々殯宮を訪れていたようです。
そこに押し入ったのが、穴穂部皇子。
日本書紀には、「皇后を犯そうとして押し入った」と書かれています。
でもね、ちょっと待ってください。
穴穂部皇子は欽明天皇と蘇我小姉君の息子です。
推古天皇の両親とまったく同じ。
……同母弟やん……。
この時代、子どもは母の里で養育されることが多いので、異母兄妹、あるいは異母姉弟は血のつながった実感がなく、結婚も可能でしたが、同母の場合は話が別。
……ほんとうに「犯そうとして」なのかなぁ(^^ゞ
しかし穴穂部皇子のたくらみは、三輪逆(みわのさかし)に阻止されます。
かくて皇子は逆を恨んで暗殺。
それが蘇我氏の恨みを買い、殺されてしまうのでした。
このエピソードをして、「その美貌で弟をさえ狂わせた」と見るのか、「弟の力になってやれなかったふがいない姉」と見るのかと言えば、私は後者なのですが。
大伯皇女が大津皇子に対して詠んだ歌を見ても、この時代に女が肉親にしてやれることなんか、少なかったのかもしれません。
……切ない……( ;∀;)
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