教育者でなくとも | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

教員となり、退職まで生涯教育者である人は本当に凄い。

最近は定年も徐々に伸びているので、ずっと40年以上、教育者であった人も決して少なくなく、その後も学校に所属して教育者であり続ける人もいらっしゃる。


私は残念ながら、教育者としてはその道を全うすることができなかったし、そもそも教育者としては評価されることもなかった。

自他共に認める教育者としてはダメダメだった。


ただ、今は教育者では無いかもしれないけど「教える人」であり続けている。

学校では学ぶことがほとんどない、クリティカルシンキングや小論文を専門に「教える人」であり続けている。



学校という場所は、教室に行けばそこに生徒がいて、その生徒が自分を受け入れようと受け入れなかろうと、授業をすることができる。

しかし私のように、学校に所属せず、なおかつ、英語や数学といった学校教科の補完を役割としないような「教える人」は、自分が創出した教える内容を受け入れる人が社会にいてくれなければ成り立たない。


無論、自分自身にとっては、クリティカルシンキングやロジカルシンキングを学んだり、テンプレートに頼らない小論文を書くことを指導することは、間違いなく暗記よりも未来社会において役立つ事は確実だ。


ただ、その考えと、社会の保護者の方々との意見が必ずしも一致するわけではない。


だからこそ、一歩ずつ一歩ずつ少しでもいいので、自分にとっては未来社会で絶対に必要だと思う学びを「教える人」であり続けれたらいいなと思う。

ただ教科書もなければ、指導書もないので、全部いちから自分なりに考えなければならず、それが楽しいような、また大変だ。


昨日、高校3年生の生徒が共通テスト直前にも関わらず塾にやってきてくれた。

この生徒は、高校の1、2年生の間、クリティカルシンキングを学んでもらい、高校3年生で受験に専念している。


やってきてくれた理由は、私の方が合格鉛筆を渡したいと言ったら、取りに行きますと言ってきてくれたからだ。

志望校を聞いたら、日本の最難関大学だった。


もちろん受験なので、合格できるかどうかわからない。

しかし、この日本の最難関大学は、前期日程であっても私の知る限り、とてもクリティカルな出題が多い。

英語も数学も教えたわけでは無いけど、もっと本質的な思考的な部分で、彼の受験を間接的に応援していたのかもしれない。

それ以上に、きっと、彼の人生において役に立つことを「教える人」であったなら、私にとってこれ以上の幸せは無い。


私は、教育者としては失敗をしてしまったけれど、「教える人」としては、毎日のように進化して、毎日のようにチャレンジを続けている。

そして、きっと死ぬまで「教える人」であり続ける。

今は、この「教える人」でしみじみ良かったと思う。