これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

2017年12月1日 日本テレビ「スッキリ」

いま、日本は一年で一番気候の良い時かもしれない。

昔であれば、田んぼには水が張られ田植えされた小さな苗が風にそよぐ。
春の水田の景色は古来より多くの歌に詠まれ、人々の気持ちを和らげてきた。
 
さて、そんな季節に再開したスタバのオープンテラス。
こんな素晴らしい気候の中で、ようやく非常事態宣言も解除され、この大きな痛手のなか、未来に向けて自分が何をすべきか、新たな使命は何かについて考える。
 
コロナ禍の中で思うことは、尽きるところ、人は他者との関わりと環境を失えばその存在意義を失うことであろう。
ただこれは表裏一体でもある。
 
私は若い頃から人との関わりが苦手で、何よりコミニュケーションが嫌いだったし、ひとりでいるのが好きだし、協調的でもない。
ゆえに、人生における友人が少なく、高校、大学の知り合いで少なからず会うのは4、5人に過ぎない。
しかも、会うのは酷いと10年に一度だ。
 
しかし、こうした機会は人との関わりを考えさせられる。
そもそも人類の文明とは、人類が群れであり、そこに多様性があったからこそ発達してきた。
人間は、おそらく偶然から生み出された道具や手法を言葉により共有し、さらにそれを改善する競争を繰り返してきた。
それは、時に他者への、残酷なほどの排他や差別に繋がるわけであり、関わりとは悪夢とも紙一重だ。
 
さらに、その文明の発達とは人間の領域を広げ、農業の誕生は、ある意味では現在の環境破壊よりも深刻かもしれない。
文明とはそんな環境破壊の連続であり、その破壊の果てに眠っていたコロナとの出会いを生み出す。
ただ、人々の暮らしはとてつもなく安全で便利になり、これまた紙一重である。
 
つまりは、関わりも環境も、常に50点であり、それを絶対視できない。
環境破壊をしなければ人類はいまなお森林の生き物だ。
 
オンラインやリモート、こういったテクノロジーは素晴らしく便利であり、気がつけば、スイスやアメリカに住む姉は、昔に比べて随分と「近く」なった。
しかし、それは雰囲気や情緒を失う関わりかもしれず、そんな便利さの構築の背景は必ず環境破壊だ。
 
もっともっと、本質的なことを考えなければならない。
日本では、あまりに学びが画一的で、何より「型」や「手法」が中心だ。
学習の中で、「コツ」などという言葉が跋扈するのもすでに思考放棄といえるし、時に本人にとっては「正義」という「誹謗中傷」といった他者への異常な攻撃性も、思考放棄である。
 
もっと自由に、学ぶ機会がなければならない。
それは小学校が一番よく、高校はもっとも画一的になり、多くの場合、生徒は黙り思考は停止し、ひたすら受け身になる。
 
もっと、私たちは自由に考えるべきだ。
アメリカでは、各地で暴動が起こり、掠奪が横行する。
あれを見ていると、どのような理由があるにせよ、日本はいい国だ。
ただ、なんだか窮屈である。
 
6月13日から、中学生の「クリティカルシンキング講座」を始める。
大人のための「やり直しの日本史」の対面も始める。
 
これらはすべて思考することが目的であり、「型」や「手法」ではない。
ある一つの答えに誘導したり、ある一つの答えありきは、それは思考ではなく、クイズだ。
 
そんなことを考えるていると、スタバまで一緒に来てくれた我が家の愛犬は、なんとも眠たそう。
平日の昼間に、スタバでこんな妄想にふける。
これは間違いなく自由であるなんて考えていると、こいつは大あくびをする。
間違いなく、これはのどかで、春の水田のようだ。