学びの変化 | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

戦後、偏差値が重視されてきた日本の大学受験。

一方最近は、グローバルな大学ランキングについて見聞きすることが増え、そのランキングでは、日本の大学はかならずしも偏差値順ではない。
 
米国のハーバード大学教授で国際基督教大学(ICU)理事長でもある竹内弘高氏は、
 

確かに、ここ数十年の日本では、偏差値という戦後日本で発達した物差しが重視されてきました。それがいま、国際ランキングというグローバルスタンダードの波を受けつつある、ということでしょう。

さらに氏は続ける。

 「何を勉強したい」「これをやりたい」といった情熱よりも、進学塾や予備校といった受験産業がはじき出す偏差値という数字を学校が重視し、その数字を上げるために教育をすること、さらにそのためにお金を払うことが当たり前に続いてきました。

ちなみにICUは、グローバル大学ランキングで、しばしば早慶を凌ぐ。

 たとえば私が理事長を兼務しているICUは、東京都三鷹市にある学生数3千人ほどの小さな大学ですが、英国の教育誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)」が3月に発表した代表的な大学ランキングの日本版で10位、私立大学ではトップでした。コストはかかっていますが、日本では珍しい、文系や理系といった枠を超えた創立時からのリベラルアーツ教育が評価されたのでしょう

国際基督教大学は、学部は教養学部だけだ。

また国連大学学長として、この春まで10年間東京を拠点に活躍したデイビッド・マローンさんはこう話す。

「私自身、カナダの大学を平凡な成績で卒業しましたが、外交官として何年か仕事をした後、ハーバードで修士号を、さらに40歳を過ぎてからオックスフォードで博士号を取りました。いずれでも貴重な経験をしましたが、大事なのは大学のブランドではなく、どういう人に学ぶかという個人レベルの要素です。ランキングでトップクラスの大学でも、ひどい先生もいれば、とんでもない状態の学科が何十年も続くこともあります。学生にとっては悲劇になりかねません」

 

ノーベル化学賞を使用した野依良治名古屋大学特別教授は、

「AIで正解できるような試験問題は質問として不適切である。AIが発達した背景の中では、知識を詰め込む教育ではなく、いかにも、なんだか、が大事になる」

と述べている。

大切なことは大学で何を学ぶか、さらにはそこで求められるのは「人間性や個性」であり、中学生や高校生は「考え方」を学ばなければならないということだ。

これからの未来に向けてこのあり方にもっとも適した入試とは総合的選抜である。

しばしば、

「総合型は偏差値を逆転できる」

「総合型は偏差値が低くても大学に入れる」

などと揶揄されたり、ラッキーチャンスと思われている。

勘違いも甚だしく、そうではない。

総合型とは個性や人間性を選抜基準として重視し、さらには大学で何をしたいかを重視し評価している。偏差値に繋がる知識の集積ではない評価であり、「評価の価値観」が最初から違うにである。

だから総合型で入学した学生は、大学での成績が良い傾向が強い。

さらには、企業の採用基準を大きく変化し、どこの大学を卒業したかよりも、大学で何を探究したかを問う傾向が強くなっている。

「そうは言っても、現実には偏差値が高くないと、有名中学や高校、大学にも入れない」

そう思われる保護者が多いであろう。だからこそ、この学校や塾が偏差値を上げることに必死になっていくであろう。

でも、それだけでは「過去を学んでいる」ことにすぎず、「未来への学び」ではない。

すでに2012年の段階で、文部科学省から「21世紀型スキル」として提言され、高校生がもっとも学ばなければならないものになっている。



確かに大人にとっては、自分の学びの経験や体験が役に立たなくなるのは寂しいことである。だがそれは明治時代に江戸時代人が思ったであろうし、戦後に戦前の教育を受けた人も思ったであろう。

この提言から10年、さらに社会は変化し、クリティカルシンキング教育も進化している。昔ながらの調べ学習程度ではクリティカルな学びとは言えないし、「正解」があるようではクリティカルな学びとも言えない。

どの学びを選択するか、それは生徒自身の自由だし、保護者の自由だ。

ただ少なくとも10年、20年、いや30年前の学びが、「過去の学び」になっていることは間違いない。