12月8日 太平洋戦争が始まった日 ~おもてなしを忘れた日本人~ | これでも元私立高校教員

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30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

いまから72年前の今日、12月8日に太平洋戦争が始まった。自存自衛といった理由がいくらあろうとも、日本人だけで310万人が亡くなった戦争を正当化はできない。

同時に当時の指導者たちは、日本の古きよき伝統すら忘れ戦争を戦った。
当時の敵へのイメージを考量し、アメリカ軍がにどれだけ残虐であったとして仮定しても、日本人の心を失った戦いをした。
何という愚かさだろうか。

戦争を賛美するわけでも正当化するわけでもないが、日本人が、また日本人の指導者たちがその心を失っていなかったのが日露戦争である。
この戦争で日本は多くのロシア人捕虜を得た。
その収容のために日本各地に二十九か所の捕虜収容所が建設されたが、その第1号ができたのが愛媛県の松山市である。
この当時、松山市の人口は3万2千人ほど、そこになんと延べ6千人ものロシア兵がやってきた。
想像しただけでも、多くのトラブルが起きたのではないかと思ってしまう。しかし、ここでの捕虜の扱いは、太平洋戦争のそれとは全く別のものであった。

将校以上は市内に借家を借りてて住み、市民と同じ自由な生活を送っていた。またバラックの捕虜収容所にいた兵士たちも道後温泉にいったり海水浴を楽しんでいた。
また公園では、戦争中にも関わらず、ロシア兵と松山市民との間で自転車競走が行われたり、料亭で芸者をあげて宴会なんてこともあった。

当時の国際法では本国から捕虜への送金が可能であり、日本政府はこの取り決めをしっかりと守っていた証拠でもある。
おかげで、松山市は好景気となり、他県から多くの商売人が押し寄せたほどだった。

松山の評判は戦場のロシア兵にも有名で、ロシア兵が降伏するときは、

「マツマヤ、マツヤマ」

と連呼しながら駆け寄ってきたことは有名な話だ。

松山は四国の巡礼地であり、多くのお遍路さんが訪れる場所でもある。
自然と「おもてなし」の心が熟成されたのであろうが、他国人である、また敵国人でもある捕虜に対しても同じ「おもてなし」をしたののである。
これこそ、日本人の心ではないだろうか。
実際に、捕虜虐待といった事件はおろか、捕虜を侮辱するような態度を取る市民もおらず、その扱いは世界から賞賛され、まさに文明国として誇りを日本は持つことができたのである。

もちろん、これは松山だけでなく、日本中での出来事でもある。

そのわずか40年後、日本の指導者たちは愚かな戦争を始め、相手国人を侮辱し捕虜へ人間としてのいたわりを忘れ、「おもてないし」の精神を失った。

東京オリンピック招致のプレゼンでの滝川クリステルさんの「おもてなし」が流行語大賞に選ばれた。
72年前に日本人が失ってしまった外国人への「おもてなし」の心。
それは誰に対しても分け隔てなく優しさの気持ちを忘れず、弱いものをいたわり、人としての尊敬を大切にすることであろう。

単に外国人を歓迎するだけでなく、学校や職場での弱い者いじめをやめ、ホテルや食品業界などのウソをやめ、政治家が自己保身や自己利益のためでなく公に尽くす、そんな国であってこそ、素晴らしい「おもてなし」ができるように思う。

72年前のの12月8日は、日本が世界に信を失った日でもある。今年の12月8日は、日本の古き良き伝統である「おもてなし」の精神を世界に発信できる日になってほしい。