Cinemanian -6ページ目

ライブテープ

$Cinemanian




先週金曜日『ライブテープ』のバウスシアター最終日に駆け込み。やっぱり吉祥寺で見たいもんね。仕事をいくつも残して電車に飛び乗る。

友達が家に遊びにきたときに借りた『ロマンスカー』。CDを再生してすぐの、
100年後 きみと待ち合わせ
で『ライブテープ』は傑作の予感。

映画が始まる前のトークの中でみなさんそれぞれが主人公なので的なコメントがあって、映画の紹介なんかでよく言われることだけど、見てみたらほんとにそうだった。前野健太が歌いながら歩く吉祥寺の街を見ていると、大したエピソードがあるわけじゃないけど、あの子と一緒に歩いたねとかあんなこと話したなとか、映画の中に自分の記憶が入り込んでいく。

どでかいハプニングなんか起こらないのに、前野健太が歌いながら(罰ゲーム的に)元日の吉祥寺の街を歩くだけといえばだけなのに、なんだろーか見終わった後のこの気持ちは。公園のステージに辿り着いたときの、ぼんやりした冬の夕日の光なんか、ある程度計算づくとはいえ奇跡的なタイミングで、偶然を必然に変える力、と松江監督は言っていたけれど、ちょっとした小さなことがこの映画のために用意されてたかのように、歌の中にとけ込んでいく。

帰るまえ、2ndアルバムを買った。そんなにドラマチックでない自分の東京生活に密着型の曲たち。こうゆう毎日も「当たり前に奇跡的」だと思える。



空が広くても意味がない きみとふとんで眠りたい~






サマーに首ったけ

Cinemanian





未見の友達と月曜日に2回目の『(500)日のサマー』。前売り券を引き換えにシネクイントに行った時点で、レジーナ・スペクターの「us」が聞こえてくると早くもこみ上げてくるものが。(早すぎ。)

一度見ているのにこのわくわく感は何だろう?というくらい、映画が始まる前、気分がやたらと盛り上がる。見終わってやっぱりまた涙が出て、前向きな切なさってゆう複雑な感情が胸に渦を巻き、それを友達に伝えようとするものの適切な言葉が見つからない。映画の感想をしゃべっているのだけど、ほんとに言いたいのはこんなことじゃない!というもどかしさ。それで今日もこの映画のことを引きずって、たぶんこれがまたしばらく続くんだろう。(これも間違いなく”サマー効果”。)


注:
未見の人はこの先は読まずに、まっさらなまま今週末あたりお近くのサマーが公開されている映画館へ走ってください。





”『(500)日のサマー』は「基本的にはロマンティストとリアリストの葛藤を描いている」という鋭い指摘が村尾泰郎氏と竹部吉晃氏との対談でなされている”、とぴかお君が紹介していたのを読んで、なるほどそうだな、と思っていたところ、『卒業』のラストで号泣するサマーを見て、チラシの宣伝文句[運命の恋なんて、あるに決まってる。](←この半々なかんじ、上手いと思う。)に繋がった気がした。サマーはリアリストだけど、『卒業』のあのラストで号泣ってことは、あってほしいという思いは実はトムより強いんじゃないのかな。だから逆に、バスの中で少しずつ表情が曇っていくダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスを見て、周りも気にせず泣いてしまったんじゃないんだろうか。そう考えると、ドリアン・グレイの彼とのことも唐突だからといってそこまで不可解ではなくなる気が。それぞれがリアリストとロマンティストであるがゆえの葛藤を見せてきた最後に、ロマンティストのトムが「運命なんてものはなくて、すべては偶然にすぎない(それって偉大なる宇宙の力だ)」と気づき、リアリストのサマーがトムに「あなたは正しかった」と言って立場が入れ替わる、っていう見せ方も上手いなあと思った。

この映画をものすごく大事に感じるのは、「・・・じゃなかった恋」にライトが当たっているからなんだと思う。脇役が主人公になった感というか、ふつうだとあのラストからの別のハッピーエンドの物語になるところを、じゃなかった方に目を向けて、なおかつそのまなざしが優しいってゆうところが魅力なんじゃないのかと。そうゆう作品が他にないわけじゃないけれど、ことさらこの映画にはそうゆう意味で愛着を感じる。それは音楽の力ってゆうのももちろん大きいけれど(ズーイー・デシャネルとジョセフ・ゴードン=レヴィットが最高だっていうのは言うまでもなく)、一番の理由は、「それでもムダだったわけじゃ決してない」ってゆう、その肯定に尽きる。だからこそ、あのオチでアハハと笑っていても、エンディングの“She's got you high”が流れてくると、涙が出てきてしまうのだ。このこともぴかお君のサイトで気がづいた。(以下引用させていただきます)



”エンディングに流れるマムラの「She's Got You High」ではこんな歌詞が何度も歌われる。
    
    「まだ気づいてないかもしれないけど、彼女は君を高めてくれたんだよ」”




パンフレットの中で、監督のマーク・ウェブは言っていた。
”『(500)日のサマー』には、ユーモアと気まぐれの中に、根本的な真実がある”
だからわたしはこの映画のことを、どうしようもなく好きなんだ。





Cinemanian

2009→2010

下半期からワンルーム・ディスコだった去年。実家のこたつで紅白鑑賞、というスタンダードすぎる大晦日の夜に、わたしの2009年を締めくくったのはperfumeでした。
今日はなんだかね おもしろいこともないし リズムに揺られたい んだ ワンルーム・ディスコ 
一度にいろんなことを解決しないといけないような毎日だと、これは星の巡り合わせのせいだろーか?と、自分のことを棚に上げて乙女座のせいにしたくなったりしたけれども、だけどチサイさんの言う通り、嬉しいことと楽しいことしか起こらないと人間は頭を使わなくなるので(実際今までがそうだった。)、そうゆう意味で2009年にも意味はあったんだろうと。

新幹線の中で、春樹の『うずまき猫のみつけかた』を読む。”遠くから見ても一目で「こいつはカタギじゃねえな」と分かる”、作家トム・ジョーンズについてのくだり。

「ヴェトナムにずいぶん深くコミットしていて、それでちょっと頭がいかれて、フランスに行ってごろごろして、けっきょく広告会社に就職して四十くらいまでそこで働いていたんだが、俺は腕が良くてね、金が儲かりすぎてつまらなくて(俺ずっとジャガーに乗ってたんだぜ。ジャガーだぞ)、それで学校の用務員になったんだ。そいでもって用務員を五年やってさ、その間に本をいっぱい読んでさ、これなら俺だって何か書けると思った。それでまあとりあえず古巣の広告業に戻ろうと思ったらさ、金の稼げる広告代理店をやめてわざわざ途中で小学校の用務員を五年もやるようなやつはマトモじゃねえって、戻らせてくれねえのよ。それでさ、じゃあまあ作家になろうと思って、小説書いて『ニューヨーカー』に送ったら採用されてさ、それで作家になったんだな。しょっぱなから『ニューヨーカー』だぜ、ぶっとんじゃうよな」

”こうゆう人って僕はかなり好きだ”、と春樹は言うのだけど、わたしもかなり好きだ。

2010年の今年は、箱根駅伝と龍馬伝と今のわたしよりも若い母親と小さい私が写っている写真を見て決めたことを思い出しつつ、おセンチな気持ちになったときには、ズーイーのこととかポップ・ミュージックのこととかを考えて、やっていこうと思います。それに友達の助けがあれば、何とかなるだろう、たぶん。

みなさん、今年もよろしくお願いします。