住所 枝幸郡枝幸町歌登辺毛内3665番地
TEL 0163-68-3101(うたのぼりグリ-ンパ-クホテル)
定休日 無休
ホテルのチェックイン 15時・チェックアウト翌朝の10時
日帰り入浴料 大人400円、小人200円
利用時間 10時~22時
駐車場 無料
枝幸町観光協会
うたのぼりグリーンパークホテル
枝幸(えさし)の由来は、アイヌ語の「エサウシ」(岬)から。2006(平成18)年3月20日旧枝幸町と旧歌登町が合併し、現在の枝幸町となった。
歌登の由来は、アイヌ語「ウタヌプリ」「オタヌプリ」(砂の山)の意。幌別川河口地域に海岸砂丘がありそれが大字歌登村の語源となっていて、枝幸村から分村する際に村の名称とした。
辺毛内の由来は、アイヌ語の「ペンケナイ」(上流の川)の意。
歌登市街地の道道12号枝幸音威子府線沿いにあり、道道120号美深中頓別線との交差点から乙忠部方向に約7.4kmの健康回復村の看板を右折し、約1.1kmほど右手。
オホーツク沿岸から内陸に入った歌登地区に面積240haにもなる健康回復村があり、その中心となるグリーンパークホテルは、森に囲まれた自然豊かなくつろぎの空間。ホテルの周りは何もなく、森と温泉と清流に囲まれた大自然がある。
温泉宿が2軒、コテージの里、キャンプ場、南宗谷ゴルフ場などがあり、温泉は肌がすべすべになると言われる全国的にも珍しい炭酸水素塩泉。源泉は朝倉温泉よりさらに上流にある。どちらも日帰り入浴が可能だが朝倉温泉は週末だけの営業となっているので注意が必要である。
グリーンパークホテルの温泉は、大きい真湯浴槽と小さな温泉浴槽があり、大浴槽から窓ガラス越しに四季折々の自然の風景を眺めることができる。小さい温泉浴槽は、炭酸水素塩泉で加温(源泉温度が低いため)・加水・循環(塩素系薬剤で殺菌)で、源泉はすぐ近くの「朝倉温泉」からの引湯。壁に備え付けられた蛇口から源泉を飲むこともできる。露天は無し。男女サウナ有。
そして、枝幸と言えば毛蟹の水揚げ量が日本一でも有名な所でもある。新鮮な魚介をはじめ、時期にもよるが山間で育まれた山菜も堪能できる。ホテルの部屋数は、洋室20(シングル9、ツイン10、特別室1)・和室21・和洋室2・その他10・コテージ3棟の総56室となっている。
裏山には、遊歩道、散策路も整備されていて森林浴にも最適だ。野鳥も多くバードウオッチングにもいいだろう。車で山頂まで行くことができるようである。
泉質は、含二酸化炭素-ナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉(弱酸性低張性冷鉱泉)(旧泉質名 含炭酸・土類-重曹泉)
源泉温度 12.2℃、PH5.9、湧出量 毎分100リットル(自然湧出)
効能は、創傷・火傷・慢性皮膚病など。
健康回復村敷地内に、廃線となった歌登町営軌道のディーゼル機関車が展示中されていた。
軌道小史
軌道の歴史は、昭和二年北海道第二期拓殖計画の樹立に
始まる。 翌三年四月、雪解けを待って起工された拓殖軌
道は、四年十二月小頓別から上幌別六線市街までの19
kmが開通し、軌道時代の幕開けを告げた。
五年九月に至り、枝幸までの16.15kmも開通し、
小頓別~枝幸間35kmの拓殖軌道が完成したのである。
しかしながら、この最初の軌道は機械力ではなく、
レールの上を馬がトロッコを引いて走る、いわゆる馬鉄
であった。
その後、志美宇丹、本幌別へと軌条も伸び、昭和十年
には総延長58kmに余り、小頓別~枝幸間は動力も馬力
からガソリンカーへと成長した。そうした中で、志美宇
丹線のみは、実に昭和三十三年までの二十五年間馬鉄に
よる運行を続けた。
拓殖鉄道は終戦とともに、簡易軌道と改められ、その
後実質的な経営も村に任されるようになるが、トラック
の出現等により利用率の低下を招き、昭和二十五年には、
歌登~枝幸間と十二線~本幌別間の運行を中止した。
昭和二十七年頃からは、このような困難な状況の中で、
軌道の冬季運行を続けるため、住民は一戸一名づつスコ
ップと手弁当を持って軌道除雪に出勤した。このように
当時の人びとは自分達の生命線を守るため、このような
奉仕活動を毎年数回づつ繰り返した。
昭和三十七年の町制施行の年には、歌登~小頓別間と
歌登~志美宇丹間をディーゼルカーで結ぶが、マイカー
時代の到来とともに、次第に収支は逆転し、着々と工事
を進めつつあった美幸線にその将来を託して、昭和四十
五年十一月、四十年に渡る軌道の歴史に終止符を打った
のである。
(歌登町史より抜粋)
このディーゼル機関車は、昭和三十年代後半から歌登・
小頓別間を、原木・製材・チップ或はデンプン等の産物
を満載した四~五輌の貨車を牽引して走った。
料金は、小頓別までの19kmが4t貨車貸切りで
1500円ほどであった。
ふれあいの森キャンプ場
開設期間 5月~10月末。管理人は期間中常駐している。受付不要
TEL 0163-62-4242(枝幸町役場 ふるさと観光課)または0163-68-3101(うたのぼりグリ-ンパ-クホテル)
定休日 期間中は無休
料金 無料
小さな山の頂上(標高237mほど)にあり、大自然に囲まれた静かな所。眺めは決していいとは言えないのが残念である(木々が高い)。天気が良い夜は圧倒的な星空を堪能することができる。センターハウスには水洗トイレや薪ストーブもあり、無料で自由に利用できる。買い出しの際は近場に無く、歌登市街まで行かないとならない。トイレは汲み取りかセンターハウスの簡易水洗。
辺毛内地区は、1906(明治39)年春に福井県人の児玉仁吉が歌登市街隣接地~ペンケナイ小学校付近まで地積80余町歩をもって児玉農場開設し開墾する。
1913(大正2)年志美宇丹方面への造材事業が本格化し、ペンケナイを経て刈分け道路を開削する。1914(大正3)年ペンケナイに天理教の団体移住があった。1916(大正5)年、4月枝幸村(現・枝幸町)より頓別村(現・浜頓別町・中頓別町)を分村。ペンケナイの児玉農場が小川農場に変わり、10戸入地する。1918(大正7)年7月辺毛内に特別教授所が開設する。朝倉温泉の源泉が発見されるのは大正末期と言われている。
1927(昭和2)年朝倉温泉の祖である朝倉福市氏が歌登に住む。1933(昭和8)年一升瓶に鉱水を詰めて札幌の道庁へ赴き鉱泉の分析を行う。4月上ペンケナイに8戸(根釧原野に移住していた人)入植する。11月上幌別六線~志美宇丹間(幌別線)開業する。
1939(昭和14)年9月歌登村として枝幸村より分村する。1947(昭和22)年春ペンケナイ川の上流地域に、次男三男3戸が入植する。この頃、長男の澄男氏名で割当売渡を受ける。1948(昭和23)年旧吉野牧場、ペンケナイの奥地に大阪団体8戸・地元2戸が入植する。1949(昭和24)年に3戸入植する。澄男氏が現地に入植し、簡易風呂を設けた。野天風呂に近い粗末なものだったが、効能大と伝え聞いた湯治者が訪れ始める。
1950(昭和25)年に7戸入植する。1953(昭和28)年東歌登地区に地元から5戸入植する。1965(昭和40)年11月ペンケナイ朝倉温泉の鉱水を引いて開拓婦人ホームを建設する。開拓農家の婦人たちの憩いと研修の場として町が補助を受けて建設した。建物は木造モルタル二階建て、54.25坪。これが健康回復村の前身となる。1969(昭和44)年開拓婦人ホームを観光協会に譲渡し、温泉ホテルを経営することとなる。1970(昭和45)年8月二階建てモルタル作りの本館と浴場等1。320平方mの観光ホテルを建設する。「歌登温泉」として開業する。11月歌登町営軌道が全面廃止となる。
1971(昭和46)年5月簡易軌道の廃線式を挙行。ペンケナイ川の改修工事が行われる。1973(昭和48)年1月旧開拓婦人ホームを残して歌登温泉が全焼する。再建を目指すが観光会社は消滅する。1974(昭和49)年春火事で焼失した跡地を利用して、町民保養施設をつくる計画がもちあがる。1975(昭和50)年3月工事着工する。7月南宗谷健康回復センターが完成する。これに伴い観光客が増加する。11月山の家ペンケ荘が完成する。鉄筋コンクリート二階建て252.6平方m。回復センターとは渡り廊下で結ばれ宿泊施設として利用された。1976(昭和51)年10月健康回復村に公園と遊園地が完成する。11月健康回復村にスキー場を整備する。スキーロッジ、リフト(簡易)、夜間照明を建設する。1977(昭和52)年スキー場に本格的なペアリフトを建設する。12月天北スキー場(健康回復村裏山)と改称しオープンする。1978(昭和53)年天北スキー場に展望台を設置する。1987(昭和62)年8月健康回復村に温泉をとボーリングを開始するが結果がでなかった。1989(昭和64・平成元)年9月健康回復村にグリーンパークホテルが完成する。宿泊施設は6階建て、2357平方m、収容人員は120名。1992(平成4)年朝倉温泉発祥の地に記念碑を建立する。