天塩町 神威岬沖地震慰霊碑 | 北海道応援のブログ

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住所 天塩郡天塩町川口(海岸通り12丁目)

天塩町

天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。
川口の由来は、開拓当初から川口原野と呼ばれていたが、その後入植者が増え「川口」となった。1898(明治31)年福井県人の武田与八郎他7名が入地したのが始まりで、当時は地名も判然としていなかったようであるがアイヌ語が由来ではなさそうである。
天塩町市街地から稚内方向に道道106号稚内天塩線進み、天塩いつくしま公園から海の方向に天塩川の築堤を登ったところにある。

1940(昭和15)年、天塩で神威岬沖地震による津波で11名の方が犠牲になった。
8月は、沿岸では猟期の真っ最中だった。砂丘には十数軒の番屋があり、漁師たちが寝泊りしていた。地震の津波にバラック建ての番屋はひとたまりもなく押し流されてしまった。深夜であったことも災いし、多くの犠牲者が出た。犠牲者には子供が多かった。8月に入り学校が夏休みになったこと、普段は市街地で留守番をしていた子供たちも父の所に泊まりに行き被害にあったようである。
1972(昭和47)年8月の33回忌にこの追悼碑を建立した。浅野文予さんは奇跡的に津波から助り、自らの歌を石碑に刻んだ。
対岸に利尻富士をば仰ぎつゝ
手塩の川は今も変らず
慰霊祭が毎年行われているそうだ。

川口は、1915(大正4)年4月天塩村に二級町村制が施行されたときからの行政字名。はじめ天塩村の一部と川口原野。1924(大正13)年4月一級町村制が施行され、町制を施行し「天塩町川口」となった。地内は川口基線・北川口・南川口地区に分かれている。天塩は天塩川河口流域に位置し、江戸期から「テシホ」として見える地名。古くはテシヲ・テシホ・テシユなどと書いた。約3000年前(紀元前10世紀)先住民族天塩川河口に竪穴住居を営み始める。1596(慶長元)~1614(慶長19)年この頃テシホ場所設置される。1700(元禄13)年2月松前藩は全島地図「松前郷帳」(小川養甫作成)を幕府に提出する。同地図に「テシホ」の地名が初めて載る。1786(天明6)年場所請負制が始まり、紀伊国商人の栖原屋角兵衛を請負人とする。1804(文化元)年栖原屋の支配人(栖原彦兵衛)天塩台地に小堂を建て弁財天(厳島神社の創始)をまつる。1846(弘化3)年松浦武四郎が天塩に訪れる。1856(安政3)年松浦武四郎が天塩内陸踏査のため再び訪れる。1857(安政4)年6月6日松浦武四郎が天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検する。1859(安政6)年天塩、苫前、留萠、天売、焼尻が庄内藩領になる。

 1869(明治2)年8月天塩地方は水戸藩領となる。天塩国天塩郡に属する。開拓使の管轄となる。1871(明治4)年各藩の分轄統治が廃され、天塩地方は水戸藩支配から開拓使の管轄となる。12月栖原屋角兵衛は、天塩国一円、焼尻、天売地区の漁場持を開拓使より許可される。1872(明治5)年9月開拓使宗谷支庁がおかれ、天塩国、北見国の宗谷、枝幸、利尻、礼文がその管轄下となる。宗谷支庁の中主典佐藤正克が天塩川を遡り、沿岸の地勢や現地人の事情を調査する。10月天塩所在の会所が駅逓扱所となる。1878(明治11)年7月郡区町村編成法により、天塩郡の天塩・幌延・遠別・沙流の村名が創設される。1886(明治19)年頃の天塩村世帯数はアイヌ4戸、和人15戸。1891(明治24)年天塩村の世帯数は18戸、93人。1896(明治29)年天塩村の土地貸付始まる。1898(明治31)年12月四原野(オヌプナイ、ウブシ、サラキシ、天塩川口)の1263.3万坪払い下げられ、越中・岩手・山形・宮城から入植する。福井県人の武田与八郎ら7名が川口原野に入植する。1910(明治43)年7月厳島神社を現在地に遷宮。天塩市街で大火。

 1914(大正3)年8月天塩電灯株式会社支店が開設、市街と川口原野に電灯が点く。1915(大正4)年4月天塩村に二級町村制が施行され、海岸通・山手通・山手裏通・天塩・川口・サラキシ・キトウシュナイ・トコツナイ・ルークシュナイ・ウブシ・サツカイシ・下サロベツ・オヌプナイ・タツネウシ・下コクネップ・ペンケビラの16字を編成する。1917(大正6)年4月村内の更岸、川口、第一、第二、啓徳、産士、幌萠の各教育所は尋常小学校に昇格となる。1924(大正13)年4月一級町村制が施行され、町制を施行し「天塩町」となった。16字は継承する。
 1935(昭和10)年6月天塩線(後の羽幌線)として幌延~天塩駅間が開業し、振老駅・北川口駅・天塩駅を新設する。1939(昭和14)年日本鉱業が北川口で石油試掘する。1949(昭和24)年帝国石油が北川口で石油の試掘を行う。1965(昭和40)年6月天塩川口遺跡調査の為、北大の大場博士らが発掘にあたる。1967(昭和42)年5月天塩川改修切替えによる幌延町との境界を変更。1971(昭和46)年1月北川口にスキー場が完成する。1973(昭和48)年9月利尻・礼文・サロベツの一部を加えて国立公園となる。1982(昭和57)年天塩河口大橋が完成する。1984(昭和59)年9月石油資源開発公社が北川口地区で石油・天然ガスの試掘をする。1987(昭和62)年5月川口遺跡風景林がオープンする。
 

 

北海道に被害を及ぼした主な地震
1611(慶長16)年、12月2日慶長三陸地震、M8.1 三陸沿岸および北海道東岸、津波により死者多数。
1792(寛政4)年、6月13日後志地方、M7.1 津波により死者5名。
1833(天保4)年、12月7日羽前・羽後・越後・佐渡、M7.7  津波と地震により、死者42名、家屋破損103戸。
1834(天保5)年、2月9日石狩川河口付近を中心に被害が集中、M6.4 住家全壊23戸。
1843(天保14)年、4月25日十勝沖地震、M7.5 釧路で5mの津波。釧路・根室で死者46名、家屋破損75戸。釧路郡役所報告などに記録がある。
1856(安政3)年、8月23日日高・胆振・渡島・津軽・南部、M7.5 北海道南岸一帯に津波。
1894(明治27)年、3月22日根室半島沖地震、M7.9 根室・釧路・厚岸に被害。住家全壊12戸。
1896(明治29)年、6月15日明治三陸地震による津波、M8.2 十勝から函館までの沿岸に津波により被害。死者6名。
1915(大正4)年、3月18日広尾沖、M7.0 帯広地方で被害。死者2名。
1933(昭和8)年、3月3日昭和三陸地震による津波、M8.1 十勝から函館までの沿岸に津波により被害。死者13名、家屋倒壊・流出67戸。
1938(昭和13)年、5月29日屈斜路湖付近、M6.1 死者1名、住家全半壊7戸。
1940(昭和15)年、8月2日神威岬沖、M7.5 天塩・羽幌・苫前を中心に津波等により被害。死者10名、家屋全壊26戸。
1952(昭和27)年、3月4日十勝沖地震、M8.2 太平洋沿岸一帯津波により被害。死者・行方不明者33名、住家全壊・流失906戸。
1959(昭和34)年、1月31日弟子屈付近M6.3(5時38分)M6.1(7時16分) 弟子屈・阿寒を中心に被害。住家全壊2戸。
1960(昭和35)年、5月23日チリ地震による津波、M9.5 北海道太平洋沿岸など津波により被害。死者・行方不明者15名、住家全壊・流失196戸。
1968(昭和43)年、5月16日十勝沖地震、M7.9 北海道南西部地域を中心に津波により被害。死者2名、住家全壊27戸。
1970(昭和45)年、1月21日北海道日高山脈南部地震、M6.7 日高支庁に被害。住家全壊2戸。
1973(昭和48)年、6月17日根室半島沖地震、M7.4 津波と地震により釧路・根室支庁に被害。住家全壊2戸。
1982(昭和57)年、3月21日浦河沖地震、M7.1 日高支庁沿岸を中心に被害。住家全壊13戸。
1983(昭和58)年、5月26日日本海中部地震、M7.7 渡島・檜山・奥尻に津波と地震により被害。死者4名、住家全壊9戸。
1993(平成5)年、1月15日釧路沖地震、M7.5 釧路支庁に被害。死者2名、住家全壊53戸。
1993(平成5)年、7月12日北海道南西沖地震、M7.8 奥尻島を中心に、津波と地震により、死者・行方不明者229名、住家全壊601戸。
1994(平成6)年、10月4日北海道東方沖地震、M8.2 釧路・根室支庁に被害。住家全壊61戸、択捉島で死者・行方不明者がでている。
2003(平成15)年、9月26日十勝沖地震、M8.0 死者・行方不明者2名、家屋全壊116戸。
2004(平成16)年、11月29日釧路沖、M7.1 根室市や釧路市などで陥没や亀裂の被害。
2011(平成23)年、3月11日東北地方太平洋沖地震、M9.0 死者1名。
2013(平成25)年、2月2日十勝地方南部、M6.5。
2014(平成26)年、7月8日胆振地方中東部、M5.6。
2016(平成28)年、1月14日浦河沖、M6.7。6月16日内浦湾、M5.3。
2017(平成29)年、7月1日胆振地方中東部、M5.1。
2018(平成30)年、9月6日北海道胆振東部地震(胆振地方中東部)、M6.7。家屋全壊469戸、死者43名、負傷者782名。
2019(平成31)年、2月21日胆振地方中東部、M5.8。