「17東大日本史本試Ⅳを考える①」の続きです。

問題は「東大教室(17東大日本史本試Ⅳ 問題)」をご覧ください。

 

第4問 近代(政治)

大日本帝国憲法下における内閣と軍部

 

解説

 

軍部大臣現役武官制の全容

 

加えて、「軍部の自立性」に密接不可分な要素として、軍部大臣現役武官制を指摘することができる。

設問Aとも関連するが、ここでその全容を再確認しておこう。

 

軍部大臣現役武官制とは、陸相(陸軍大臣)・海相(海軍大臣)の任用資格を現役の大将・中将に限定する制度をいう。

この制度のもとでは、政党員が陸相・海相に就任することは不可能になる。

政党が勢力を伸張させた日清戦争後の1900年(第2次山県有朋内閣)、陸海軍省官制の改正により制度として確立したSNG p.46)

 

1912年12月、2個師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して上原勇作陸相が単独で天皇に辞表を提出して辞任すると、陸軍省は第2次西園寺公望内閣に対して後任の陸相を推薦しないという手段をとった。

陸相・海相を現役に限定する制度(軍部大臣現役武官制)のもとで陸軍省が陸相推薦を拒否すれば、首相は陸相を選任する手段を失うことになる。

この軍部大臣現役武官制のもつ倒閣機能によって、西園寺内閣は総辞職に追いこまれた(大正政変の開始、SNG p.69)。

 

1913年「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする第一次護憲運動の衝撃のなかで成立した第1次山本権兵衛内閣は、陸海軍省官制を改正。

現役規定を削除して陸相・海相の任用資格を予備役・後備役まで拡大することによって、同制度のもつ倒閣機能を消失させたSNG p.69~p.70)

 

以後1920年代にかけて政党勢力が一段と存在感を増し、この過程で「憲政の常道」政党内閣期も実現することになる(1924~1932)。

 

1936年二・二六事件が発生した。

このクーデタは統制派(高度国防国家を合法的に建設しようとした陸軍エリート軍人層)により戒厳令下で鎮圧され、皇道派(天皇中心の精神主義的な昭和維新路線を唱えた急進的青年将校ら)は陸軍内から一掃された。

さらに陸軍内の主導権を握った統制派は、事件後に成立した広田弘毅内閣に圧力をかけ、現状のままでは皇道派が陸軍に舞い戻ってくる恐れがあるという理屈をつけて、軍部大臣現役武官制を復活させることに成功するSNG p.103)

 

復活した軍部大臣現役武官制は、内閣の死命を制しうる破壊的な権限として機能し、昭和戦前期の政治史に大きな影響を与えた。

具体的には、1937年、陸軍省が陸相推薦を拒否するかたちで宇垣一成(かずしげ)(1925年に宇垣軍縮を実行した陸軍出身の政治家)に組閣を断念させ、新体制運動(ナチスや共産党をモデルに一国一党体制を築こうとした政治運動)が高揚した1940年にも、畑俊六陸相辞任後、やはり同様に陸軍省の陸相推薦拒否により米内(よない)光政内閣が総辞職に追いこまれたSNG p.103)

 

「17東大日本史本試Ⅳを考える③」に続く。