「17東大日本史本試Ⅳを考える②」の続きです。

問題は「東大教室(17東大日本史本試Ⅳ 問題)」をご覧ください。

 

第4問 近代(政治)

大日本帝国憲法下における内閣と軍部

 

解説

 

2個師団増設問題と政党政治(設問A

 

では、設問Aを考えてみることにしよう。

問題の要求は、2個師団増設問題が政党政治に与えた影響を論じること。

 

1907年の帝国国防方針SNG p.69)を背景に、陸軍は、中国で辛亥革命(1911、SNG p.52)が起こると、これに刺激されて、南満州や内蒙古(内モンゴル)の諸権益を維持するために、併合後の朝鮮半島に駐屯させる2個師団(師団=陸軍編制の最大単位)の増設を強く要求した。

一方、当時の日本は深刻な財政難SNG p.54)に直面していたため、第2次西園寺公望内閣は行財政整理を掲げ、緊縮財政方針を明確にしていた。

 

1912年12月、2個師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で天皇に辞表を提出すると(帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)の乱用、SNG p.69)、陸軍省は西園寺内閣に対して後任の陸相を推薦しないという手段をとった。

すでにふれたように、こうして西園寺内閣は総辞職に追いこまれた(軍部大臣現役武官制の拡大解釈)。

 

つづいて、内大臣(天皇の常時補佐役)・侍従長の地位にあった桂太郎が3度目の内閣を組織すると、この行為は「宮中・府中の別」を乱すものだと非難された。

 

陸軍と桂太郎(山県閥)によってつくりだされた、この2つの連続した事態を背景に、第一次護憲運動がはじまる。

犬養毅・尾崎行雄らが中心となって開始した第一次護憲運動の特徴は、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする全国的な大衆運動に発展したところにある。

 

首相の桂は、新政党を組織して対抗しようとした(1913年に加藤高明を総裁に立憲同志会結成)が、運動の過熱を抑えることに失敗し、1913年2月、わずか50日余りで退陣を表明することになった(大正政変)。

 

答案をまとめる際には、2個師団増設問題が発生した段階で(1912)、政党政治はすでにかなりの段階に到達していたことに注意したい。

具体的には、20世紀初頭の一時期、桂(陸軍出身)が3回(山県閥の内閣)、西園寺(立憲政友会総裁)が2回(政党内閣)、交互に内閣を組織し、それは両者の名前をとって桂園時代(1901~1912)と呼ばれた。

 

したがって、2個師団増設問題が政党政治に与えた影響を明確にするには、従来(桂園時代)との差異を示さなければならない

「政党が力をつけた」といった表現は何も説明していないに等しい。

 

この点については、問題に与えられた年表に、「第2次大隈重信内閣による2個師団増設案、帝国議会で可決」とあることがヒントになるだろう。

最新版の教科書にも、次のようなグラフが掲載されている。

グラフ 選挙結果の動き

 

山県閥が切望した2個師団の増設は、結局のところ、立憲同志会(のちの憲政会立憲民政党)などを与党とする内閣のもとで1915年に実現した。

政党の勢力伸長が一直線に進んだわけではないということを念頭におきつつ、従来(桂園時代)との差異をどう明確にすればよいか、ここにもてる能力を集中させてほしい。

 

解答例では、「二大政党制的な政治運営の端緒に」とまとめた。

参考にしてほしい。

整 理 近代政治史の展開

 

解 答

2個師団増設問題は大正政変の一因となって山県閥に打撃を与え、内閣の存立を脅かす軍部大臣現役武官制の改正をもたらし、さらに桂新党の試みがのちの二大政党制的な政治運営の端緒になった。

(90字)

 

「17東大日本史本試Ⅳを考える④」に続く。