【東大教室】ブログ上公開演習➊-2(解説解答)の続きです。

問題は、【東大教室】ブログ上公開演習➊-1(問題)で確認してください。

 

演習➊ 中世(総合) 御成敗式目と建武式目

 

解説

 

設問B 政治的意図

 

この設問は、問題の限定にしたがって素直に考えてくれればよい。

 

限定① 「当時の政治情勢を前提に」

建武式目が発せられた1336(建武3)年は、建武の新政が完全に挫折し、南北朝の対立が明確になった年である。

具体的には、入京を果たした足利尊氏によって同年8月に光明天皇持明院統)が擁立される一方で、12月、ひそかに京都を脱して吉野に移った後醍醐天皇大覚寺統)は、依然として正統な天皇は自分であると主張した。

 

興福寺のある僧は、この事態を「一天両帝、南北京」と形容している(『大乗院日記目録』)。

 

限定② 「光明天皇が……変則的な儀式を経て即位した」

この事実から、尊氏の擁立した北朝には正統性の点で問題があったことを確認することができる。

なお、「三種の神器」とは、皇位を象徴する3点の宝物(ほうもつ)=八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)をいう。

 

ここまでくれば、問題の要求である「政治的意図」を見抜くのは、難しいことではない。

 

尊氏の諮問に応えた「是円」らは、「延喜・天暦両聖の徳化」(下線部)という表現を用いて、後醍醐天皇の掲げた政治上の理想をあえてくりかえしてみせることで、北朝のもつ脆弱(ぜいじゃく)性を少しでも補おうと考えたのである。

 

この点について、ある研究者(村井章介氏)は次のように述べている。

参考にしてほしい。

尊氏は建武式目を制定し、幕府の再興を内外に明らかにした。

建武式目は、同じ式目の名で呼ばれても、御成敗式目とはまったく異なるふうがわりな法である。……

 

建武式目の……内容は、「十七条憲法」に条数を合わせているものの、政権創出にあたって超越的な規範を定めたというようなものではなく、状況対応的な色彩が強い。

 

たとえば京中の空地を本主に返すことを定めた第5条には、後醍醐の叡山行幸につき従った「公家被官の仁」の所有地は、一律に没収するのではなく、罪の軽重によって処分に差異を設け、彼らが困窮しないようにする、とある。

後醍醐についていった人々の寝返りを誘う意図が透けて見える。

 

後文では「遠くは延喜・天暦両聖(醍醐・村上天皇)の徳化を訪い、近くは義時・泰時父子の行状をもって近代の師となす」と述べ、武家の聖代を並置しつつも、後醍醐が規範とした延喜・天暦の治を称えることで、建武政府の正統性をも取り込んでしまおうと図っている

 

狼藉鎮圧を定めた第3条、……無尽銭・土倉の復興を定めた第6条は、京都の治安を回復し経済を立て直して、都びとの心を引きつける方策であった。

村井章介『日本の中世10 分裂する王権と社会』中央公論新社、2003年

 

解 答

南北朝分立下、後醍醐天皇と同様の理想をあえて掲げて建武政権の継承すら唱えることで、尊氏の支える北朝の権威補完に努めた。

(60字)

 

【東大教室】ブログ上公開演習➊-4(解説解答)に続く。