20-4 南北朝の動乱

 

鎌倉で北条氏(ほうじょうし)がおこした反乱(中先代の乱(なかせんだいのらん))を鎮圧した足利尊氏(たかうじ)は、その直後に建武政権からの離反(りはん)を鮮明にした。

 

1336年、京都の制圧に成功した尊氏は、持明院統(じみょういんとう)の天皇を擁立し(北朝=持明院統)、建武式目(けんむしきもく)を公表して武家政権である室町幕府(むろまちばくふ)を樹立した。

一方、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)吉野(よしの)に逃れ(南朝大覚寺統(だいかくじとう))、ここから長期にわたる内乱の時代=南北朝時代、がはじまることになる。

 

 建武式目

建武式目は法としての性格をもつものではなく、あくまでも施政方針(しせいほうしん)を示すもので、室町幕府の基本法として機能したのは、鎌倉幕府と同様、御成敗式目(ごせいばいしきもく)だった。

 

 北朝の分裂

南北朝時代は、南朝と北朝の対立・衝突がそのまま継続したのではない。

 

成立した室町幕府には、畿内近国(きないきんごく)の新興武士層鎌倉幕府以来の伝統的武士層とのあいだで深刻な路線対立が存在し、この両勢力の対立が観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(1350~1352)と呼ばれる全国的争乱を招くことになった。

 

 武士結合の変化

惣領制(そうりょうせい)の崩壊のなかで、従来の血縁的結合(けつえんてきけつごう)ではなく、地縁的結合(ちえんてきけつごう)にもとづいて武士集団がつくられた。

 

また、相続(そうぞく)の形態も、分割相続(ぶんかつそうぞく)から嫡子(ちゃくし)一家を統率する地位をうけつぐ者)への単独相続(たんどくそうぞく)へと変化した。

 

このため、地縁的に結びついた小規模な武士集団が多数形成され、それらが南朝や北朝などと無原則に提携したり敵対したりする様相が生じ、戦闘の日常化・全国化がもたらされた。

 

こうした武士集団は、鎌倉時代末ごろから南北朝時代にかけて、秩序(ちつじょ)に従わない武士として悪党(あくとう)と呼称され、さらに南北朝時代後半には、地域に深く根をおろして実力を蓄えた在地(ざいち)の有力武士国人(こくじん))が多数姿をみせるようになる。