*【東大教室】ブログ上公開演習➊-3(解説解答)の続きです。
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演習➊ 中世(総合) 御成敗式目と建武式目
解説③
■設問C 室町幕府法
この設問は、解答例を読んでもらえれば、解説を加えるまでもないかもしれない。
まず御成敗式目については、何よりも、北条泰時が式目制定の趣旨などを説明した北条泰時書状(泰時消息文)を熟読しておくことが大切である。
その上で、以下の点に気をつけておきたい。
(a) 1232(貞永元)年に制定された御成敗式目は、合議のための指針・公平な裁判のための基準、を示すために編纂された。
(b) 御成敗式目は、武家最初の体系的法典であり、幕府法の自立を宣言するものだったが、一方で、律令の系譜をひく公家法や、荘園領主のもとでの本所法と共存する性格をもっていた。
この特徴は、泰時消息文のなかの、「この式目は・・・・・・武家の人へのはからひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊(いささか)もあらたまるべきにあらず候也」、という表現によく示されている。
(c) 室町幕府の基本法として機能したのは、鎌倉幕府と同様、御成敗式目だった。
鎌倉幕府による御成敗式目の追加法は式目追加と総称され、室町幕府による御成敗式目の追加法は建武以来追加と総称された。
この点に関連して、室町幕府の成立期までを武家方から描いた歴史書『梅松論』の一節を紹介しておきたい。
そこには、「時節到来にや、元弘三(1333)年の夏、時政の子孫七百余人同時に滅亡すといへども、定め置ける条々は今に残り、天下を治め弓箭(ゆみや)の道をただす法となりけるこそ目出度(めでた)けれ」といった記述が残されている。
下線部の大意は、「御成敗式目などの法令は、現在もなお天下を統治し、武士社会を律する法として機能しており、実に結構なことだ」、となり、御成敗式目の性格が象徴的に示されている。
(d) 御成敗式目は、以後も戦国大名の分国法に影響を与え、近世になると寺子屋の学習教材として利用されるなど、その生命力はきわめて強力だった。
一方、建武式目の性格に関して、教科書は「当面の政治方針を明らかにした」(『詳説日本史B』p.122)といった説明を加えている。
この観点から、史料(1)(御成敗式目)と史料(2)(建武式目)をあらためて読み比べてもらえれば、その違いを明快につかむことができるだろう。
先に引用した『分裂する王権と社会』中の表現にも、建武式目について、「御成敗式目とはまったく異なるふうがわりな法」、「政権創出にあたって超越的な規範を定めたというようなものではなく、状況対応的な色彩が強い」とあり、御成敗式目との性格の相違が明示されている。
別の研究者(新田一郎氏)の表現を借りれば、「(建武式目の)全体は二つの部分に分かたれ、第一の部分では、武家政権を前代のように鎌倉に置くべきかどうかが問題とされ、第二の部分では、政務に関わる基本姿勢や当面する問題への対処」がまとめられており、特に末尾の部分(史料(2))では「為政者たる者の心得」が説かれた、ということになる(『日本の歴史11 太平記の時代』講談社、2001年)。
以上のことからわかるように、建武式目はあくまでも、当面する政治の基本方針を示す性格をもつものだった。
この機会に、鎌倉幕府法と室町幕府法の関係を正確に理解し直しておこう。
解 答
Cロは当面の政治方針を示すもので、幕府はイを基本法、建武年間以降の法令をその追加法とし、これらを建武以来追加と総称した。
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