問題は、「200字論述新研究44(問題17・18)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究48(問題18を考える➊)」をご覧ください。

 

問題18 解説

 

得宗専制と守護

 

鎌倉時代後半には、2度にわたる蒙古襲来元寇、1274・1281)があり、その後も鎌倉幕府は防衛体制を維持する必要にせまられた

幕府を主導する北条氏の権力は全国規模の軍事動員を通してさらに強大化し、得宗専制が確立する。

 

次のような特徴をもつ得宗専制政治は、守護のあり方にも変化をおよぼした。

 

得宗専制政治の特徴

 幕政

合議にもとづく政治が転換し、得宗(北条氏の本家を継いだ者)の強力な政治指導力のもとで、御内人(みうちびと)(得宗家に仕えた家来)が幕政を主導するようになった。

こうしたなかで、1285年、有力御家人安達泰盛らが内管領(うちかんれい)(御内人の代表)平頼綱に滅ぼされる事件(霜月騒動)が発生し、これによって得宗専制は決定的なものになった。

 

なお、平頼綱ものちに北条貞時に滅ぼされた(1293、平禅門(へいぜんもん)の乱)。

 

 全国の守護

守護は、しだいに国衙に対する支配を強め、地方行政官として大きな役割を果たすようになっていった。

 

得宗専制期になると、北条氏一門が全国の守護職の半数以上を独占する事態が生じた。

そこには、惣領制の崩壊により一族単位の軍事動員が困難になったという事情が存在した。

それでも幕府は防衛体制を継続しなければならなかったため、守護による一国単位の軍事動員が模索された。

 

守護と北条氏

 

南北朝の動乱と守護大名

 

鎌倉幕府滅亡(1333)後の1336年、京都制圧に成功した足利尊氏は、持明院統光明天皇を擁立し(北朝=持明院統)、施政方針を示す建武式目を公表して武家政権である室町幕府を樹立した。

一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ(南朝大覚寺統)、ここから長期にわたる動乱の時代=南北朝時代が始まることになる。

 

室町幕府は、この動乱の過程で、守護に大犯三カ条以外の権限を認め、守護を通して地域の有力武士(国人とよばれた)を組織化しようとした。

 

次に示したような守護権限の拡大を背景に、有力武士の組織化や国衙機能の吸収、守護請(荘園・公領における定額の年貢納入を守護が請け負うこと)の実現などを果たして地域的な支配権を確立した守護のことを、鎌倉幕府体制下の守護と区別して守護大名ともいう。

 

守護権限の拡大

 

 刈田狼藉の取り締まり(検断)

田地をめぐる紛争の際、実力で相手方の稲を刈りとってしまう行為を取り締まる権限。

 

 使節遵行(じゅんぎょう)

幕府の裁判の判決を強制執行する権限。

 

 半済(はんぜい)

観応の擾乱(じょうらん)(1350~1352)にともなう混乱がつづいていた1352年、幕府は、近江・美濃・尾張3国の守護に対して、1年のみという約束で荘園・公領の年貢の半分を軍費調達のために徴発してよいという権利を認めた(観応の半済令)。

 

戦乱のなかで力を強めつつあった守護たちがこの法令を拡大解釈したため、半済は全国的かつ永続的におこなわれるようになり、ついには土地そのものの分割が認められるに至った

これによって守護は、土地を与えて国内の武士をみずからの統制下に組みいれることが可能になった。

 

続きの解説は、「200字論述新研究50(問題18を考える➌)」をご覧ください。