問題は、「200字論述新研究26(問題11・12)」で確認してください。

 

問題11 解説

 

キリシタンの禁圧

 

キリシタンとは、近世における日本人キリスト教(カトリック)信者のことで、当初は「吉利支丹」などと表記されていたが、禁教(キリスト教の根絶)政策が徹底すると、「切支丹」といった負のイメージをもつ表現が用いられるようになった。

 

キリスト教の布教は、1549年にイエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルがキリスト教をはじめて日本に伝えてから織田信長の時代まで、基本的には地域権力や統一権力の保護をうけていた

 

日本の統一権力による禁教方針が明示されたのは、主君への忠誠より神への絶対的崇敬を優先する宗教を危険視した豊臣秀吉の時代になってからで、その最初の事例が1587年に発令されたバテレン追放令(バテレン=伴天連とは宣教師のこと)である。

ただしこの段階では、秀吉が一方で南蛮貿易を奨励したため、禁教方針は徹底しなかったことにも注意しておきたい。

 

禁教方針の明確化とその徹底は、江戸幕府のもとで進められた。

幕府成立期にあたる1610年代から1620年代に限定すると、教科書には、次のような具体例が載せられている。

 

禁教政策の推移

1612 幕府、直轄領に禁教令を布告(1613 禁教令を全国に拡大)。

1614 宣教師や高山右近キリシタン大名)ら300名以上をマニラとマカオに追放。

1616 中国船以外の外国船来航を長崎平戸に限定。

1622 長崎で、宣教師・信徒ら55名を処刑(元和の大殉教)。

1624 スペイン船の来航を禁止。

 

寺請制度の整備

 

さらに江戸幕府は、次の2つの方法でキリシタンの根絶を図っていった。

 

第一の方法は、キリシタンを摘発するために実施された絵踏である。

この時に用いられたキリスト像やマリア像のことを踏絵といい、1620年代後半以降、九州各地で絵踏がおこなわれるようになった。

 

第二の方法が、特定の寺院(檀那寺)が特定の家(檀家・檀徒・檀那)の葬儀・法要を永続的に担当し、そのかわりに布施(僧侶に対する謝礼)をうける関係を基礎とした寺請制度(寺檀制度ともいう)になる。

寺請制度のおもな内容は、「特定の寺院が近在の民衆を檀家として宗門改帳に登録してキリシタン・日蓮宗不受不施派ではないことを証明する制度」という表現で、解答例に示したとおりである(「200字論述新研究28(問題11を考える➋)」参照)。

 

こうした寺請制度は、島原の乱(1637~38)後、宗門改役(あらためやく)がおかれてまず幕領中心に本格的に整備され、17世紀後半にあたる寛文年間(1661~1673)には、諸藩でも同様の宗門改(あらため)が実行されていった。

 

教科書の説明が不足している宗門改帳(あらためちょう)日蓮宗不受不施派については、「一橋大論述新研究81(14-Ⅰ 問2を考える)」を、この機会に必ず読んでおいてほしい。

 

続きの解説は、「200字論述新研究28(問題11を考える➋)」をご覧ください。