問題は、「200字論述新研究6(問題3・4)」で確認してください。

解説は、「200字論述新研究9(問題4を考える➊)」をご覧ください。

 

問題4 解説

 

非政党内閣の連続

 

政治の世界に目を転じると、1920年代初頭には、高橋是清内閣が短命に終わったのち3代にわたって非政党内閣が連続した

 

加藤友三郎内閣・第2次山本権兵衛内閣はいずれも海軍大将が組織した内閣だが、加藤は1923年9月の関東大震災直前に病死し、震災直後に緊急組閣した山本内閣も年末に虎の門事件に遭遇して総辞職を余儀なくされた。

つづいて清浦奎吾が組閣を担当し、1924年、貴族院を基盤とした内閣が成立する。

 

こうした非政党内閣の連続と貴族院内閣の登場は、世論の反発を高めることになった。

 

第二次護憲運動

 

1924年、清浦奎吾内閣のもとで、「普選断行・貴族院改革」などをスローガンとする第二次護憲運動が展開された。

この運動の最大の特徴は、護憲三派による選挙運動が中心だったことである。

 

清浦奎吾内閣に反発して憲政会立憲政友会革新俱楽部が護憲三派を結成すると、清浦内閣は、政友会脱党者が組織した政友本党を味方につけて衆議院を解散するという手段をとった。

総選挙の結果、護憲三派が圧勝して清浦内閣が総辞職する一方で、衆議院第一党となった憲政会総裁の加藤高明が護憲三派内閣(3党連立内閣)を組織した。

 

以後、8年間にわたって政党内閣が継続することになる(「憲政の常道」)。

 

1924年 総選挙の結果

1924年の総選挙の結果、憲政会が151議席を獲得し、立憲政友会105議席・革新俱楽部30議席を合わせると、護憲三派の獲得議席は286議席に達した。

これに対して清浦内閣を支持した政友本党の議席は149議席から109議席へと激減した。

 

政党内閣期(「憲政の常道」)

政党内閣期(「憲政の常道」)とは、1924年の第1次加藤高明(護憲三派)内閣から、1932年の五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまでの8年間をいう。

外交面ではワシントン体制下での協調外交が基調になったが、経済面では1920年代に継続した不況への対応に苦しみ、8年間で7代の内閣が登場する政治的に不安定な時代になった。

 

護憲三派内閣

 

成立した第1次加藤高明(護憲三派)内閣は、いずれも1925年に、日ソ基本条約を締結し、男性による普通選挙制を実現する一方で、治安維持法を制定した。

 

の日ソ基本条約は外相幣原喜重郎のもとでソ連との国交が樹立されたことを意味し、の男性による普通選挙制は衆議院議員選挙法の改正により納税資格が撤廃されたことによって達成された。

この結果、有権者数は4倍に増加し、同時に小選挙区制中選挙区制(3人区~5人区)に改められた。

 

本問で論述を求めたの治安維持法は、「国体」の変革や私有財産制度の否認をめざす社会主義運動を、懲役または禁錮10年以下の刑に処すという内容をもつものだった。

 

日ソ基本条約締結による社会主義国ソ連の影響力拡大、普選実現による無産政党(労働者・小作人など「無産階級」の利益擁護を目的に結成された合法的社会主義政党の総称)の議会進出などへの対応を意図して制定された。

 

「国体」の変革

「国体」の変革とは、コミンテルンの指導下で君主制廃止を掲げる日本共産党の動きを対象にした表現で、当初は天皇制打倒を意味していた。

 

治安維持法の改正

 

1928年、衆議院が解散され、男性による初の普通選挙が実施された。

この総選挙では労働農民党など無産政党から8名の当選者が生まれ、また非合法活動を余儀なくされていた、コミンテルン指導下の日本共産党も、機関紙『赤旗(せっき)』を創刊したり、無産政党の候補として党員を立候補させたりするなど活動を活発化させた。

 

こうした政治情勢に対して、政府(田中義一内閣)は、日本共産党員とその同調者の大量検挙をおこない(三・一五事件)、治安維持法の改正と特別高等課(特高)の全国への組織拡充により弾圧体制を強化する措置をとった。

 

改正された治安維持法を示すと、次のようになる。

 

改正治安維持法(1928)

第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル(担当シタル)者ハ、死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ、情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ、二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス。私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ、十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス。前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

(官報)

 

改正点のポイントは、「国体」の変革と私有財産制度の否認とを分離し、「国体」の変革をめざす組織の指導者に対する最高刑を死刑または無期刑としたこと、「国体」の変革をめざす「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」(結社に関係した協力者)を有期刑に処するとしたこと(目的遂行罪の追加)である。

 

によって運動への威嚇効果が格段に強められ、によって、権力が危険と判断した者をだれでもいつでも逮捕・処罰できる合法的な根拠が形成された。

もう少し易しくいうと、共産主義(社会主義)運動に関わる人物と「食事するのも、歩くのも、『目的遂行ノ為ニスル行為』とみなしうる」(ある検事の発言)という状況が生まれたのである。

 

なお、治安維持法については、1928年の改正が議会を通さず緊急勅令の方式でおこなわれたこと、1941年(第2次近衛文麿内閣)にも改正がおこなわれ、刑期を終了しても再犯の恐れありと認められる場合には獄につないでおけるという予防拘禁制が新たに導入されたことも、あわせて確認しておきたい。

 

問題4 解答

1925年,日ソ基本条約締結によりソ連の影響力が増す事態や普選実現により無産政党が議会に進出する事態に備え,共産党を中心とする革命運動の禁圧を意図して治安維持法が制定された。内容的には天皇制打倒や私有財産制度否認をめざす結社の組織者・参加者を10年以下の懲役または禁錮に処すと規定され,1928年の改正では,共産主義運動取締り規定の最高刑が死刑とされ,運動に協力した者も広範に処罰できる目的遂行罪が追加された。

(200字)