僕は唯だひたすら黙って、早足で歩いた。女は道すがらずっと話しかけてきて、家に着いてからもその調子だった。自分の中の得体の知れない自分が、あるいは手の中の虫が僕の身体を突き動かしていた。ところがシャワーを浴びてから途端に眠くなってきた。おかしいな、変だなと目を擦ってもだんだんと瞼が閉じてゆく。僕の後にシャワーを浴びている彼女がたてる水音も遠くに聞こえる。机に置いた、もがく虫だけを感じて、僕は眠りに落ちた。

目覚めると僕の部屋で、机に突っ伏していた。後ろのベッドになぜか彼女が寝ている。昨日僕は、疲れて眠ってしまったようだった。冴えない頭は、他人の部屋でその主人を横目にベッドを占領している彼女の非常識に混乱していた。虫は、と思って身体を起こすと、一晩中もがいていたのだろうか、机の隅の方まで移動していて、小刻みに震えていた。じっと虫を見ているとなんとなくかわいそうになってきて、昨日どういう勢いであったか連れて帰ってきてしまったが、また拾った場所に捨ててくるのはためらわれた。家で飼うつもりなの、という昨日の女の言葉が頭に浮かんできた。


 近くのホームセンターに行って虫を入れるかごを探した。夏休みのイベントコーナーにプラスティックの虫かごが山積みされていた。ほとんど透明のケースで、蓋のところだけかごっぽくなっているやつ。それを手に取ったところで、自分が虫かご小脇に抱えてレジに並んでいるのを想像してしまう。なにも虫かごでなくても、プラスティックの透明な箱ならいいんだ。短パン小僧みたいな真似はごめんだ、と思って、それらしいものを求めて店内をぐるぐる歩き回った。水槽のところで小さな立方体のガラスケースを見つけた。モダンアート気取りで、安物だろうが無職の財布事情的には楽ではない。一度棚に戻して、店内をもう一度ぐるぐるしたが、さっきの虫かごしかなくて、それと比べてからやっぱりモダンアート気取りの方を買った。きっとそれはあの女に対する見栄だった。


 家に帰ってみると女は起きていて、僕のTシャツを勝手に着ていた。

「おかえり。どこいってたの」

さも日常であるように女は言った。僕のTシャツの胸のところが伸びている。高校に行ってた頃から着ていたやつで、結構くたびれているけどむしろそれを着ていることに腹が立った。

「なにしてんだよ。脱げって」

カッとなって声を大きくしたが、女は、ええ、やだよぉ、とかグダグダと言って脱がない。今度はさっきよりも低く抑えた声で早くしろと言ってみるが、それでも、もお、とかなんとか言っていて変化がない。そのまま玄関のところでじっとしていると、女もなんだかきまりが悪くなったらしく顔をうつむけた。そこでふと、虫がいないのに気が付いて、おい虫は、と尋ねた。女は窓から外に逃がしたと答えた。ここはアパートの二階だ。

「ふざけんなや。よわっとったやつ窓から投げたらどうなるか」

「どうせ面倒みないんでしょ。虫ぐらいで…」

小言を言うように女が言って、僕の体は怒りに震えた。キッと睨みつけて、拳に力が入った。ただ、なぜだかそれよりも虫の方が心配で、踵を返して買い物袋を持ったまま外へでた。ガンガン音の響く鉄製の階段を駆け下りて僕の部屋の下へ向かった。窓の真下には植え込みがある。虫は植え込みより少し道路寄りに落ちていて、真暗色の体がやはりなぜだかすぐに見つかった。

 同窓会は一応、大阪のホテルで行われた。小学校の同窓会だから、どうせ居酒屋で酒を引っかけながら飲むんだろうと思っていた僕は、当日の出発直前、電話で話していた友人にスーツを着てこいよと言われて愕然とした。持っていない。悩んだ挙句、僕の家に置きっぱなしにしている、小池のスーツを借りて行くことにした。海の家の作業を終えて、シャワーを浴びてもなお汗ばんだ身体に、小さめの服が張り付いた。

 会場で、僕は居場所がなかった。2000円の食べ放題だけを黙々と腹に入れた。同級生が立派に社会人をやっている中で、プー太郎の僕がつんつるてんのスーツを着て立っていた。たまに顔の思い出せない奴が来て、いま、何やってんの、と訊かれても、何にもしていない。海の家。何をやってるんだろうと思った。耐えられなくなって、集合写真を撮る前に会場を出た。帰り道、逃げ帰る自分の背中を、幽体離脱して見ているような気分になってみじめだった。道の植え込みに唾を吐いて、それは例の一夏のアヴァンチュールに吐いたつもりだった。そんな幻想があの寂れた、狭い海岸に無いことも、今日同窓会に来ればどんな思いをするかも分かっていた。分かっていて、それを回避する気力もないのだった。陳腐な魂は、それらに唾を吐くだけで、満足した。ふと、唾を吐いた植え込みに虫が蠢いているのに気付いた。甲虫ではなくて、芋虫的な、人差し指程の大きさ。暗い夜道で、ほとんど真暗色のその虫に気付いたのが不思議に思われて、立ったままじっと見つめた。うねうねと動くそれを、気持ち悪いなと思う。
「それ、弱虫」
後ろから、女が言った。同窓会に居た女だ。ただ、小学校のときこんな奴いたかなと思う。マスカラが黒く固まって目元を汚している。広く開いた胸元で、白い肌に血管が青く浮いていた。化粧で作った顔の下に、地味な顔が想像出来た。想像して、ああ居たかな、と思ったが、やっぱり居なかったような気もする。そんな、顔なのだ。
「可愛らしいね」
その女は、標準語のイントネーションで喋り、虫を拾い上げた。虫は、女の手のひらで必死に這いつくばっている。その必死さが、女の微笑が、勘に障った。女の手から虫を取り上げて、早足で家に向かった。
「虫のことなんにもわからないでしょう。家で飼うつもりなの」
女は若干走るような具合で、早足の僕に着いてきた。身体を寄せてきて、大きい胸が肘に当たる。小さいスーツが、いっそう身体にへばり着く。
僕は首を捻って女の顔を見た。上目遣いの地味な顔がこちらを見上げていて、僕の腹の奥のほうでは軽蔑と、下衆な感情が浮かんだ。虫は手の中で相変わらず必死に身体をよじっていたが、さっきよりほんの少し、大きくなったような気がした。

 京都で独り暮らしをしている僕は、友人の小池という男に誘われて短期バイトをすることになった。海水浴場の休憩所で、所謂「海の家」をするとの事だった。当時の僕は金と女に縁の無いプー太郎だったから、小池の、一夏のアヴァンチュールじゃという、中学生でも相手にしないような台詞を真に受け、阿呆のように幻想を抱き、ころりと騙されたのだった。時給八百円で七月から八月の間、盆も休み無し。まかないは有り。小池の叔父がやっている。
「海開きする前に日除けとか建てなあかんから。明日いけるやろ」
小池が、僕の部屋で漫画を読みながら、アヴァンチュールを了承した僕に言った。
「ああ、うん。いや、明日は無理」
同じく漫画を読みながら聞いていた僕は、集中しない頭で自分の予定を思い出していた。
「明日は同窓会がある」
何の同窓会やねんと尋ねてくる顔には、嘘つくなサボるつもりやろと決めつけた雰囲気がした。小学校のクラスで集まろうという会だったから、中学から転校してきた小池は呼ばれなかったらしい。
「いつの話やねん、小学校って」
「大阪なんか機会無いと帰らんからさ、色々あんの」

 結局、中学で知り合うと、僕と小池は同じ京都の馬鹿な高校に行って、二人とも独り暮らしだったから、腐れ縁というのにぴったりなおざなりの関係でやっていた。僕は途中で学校を辞めて、小池は一応進学して、やっぱり馬鹿な大学に行った。その後、二人とも無職。


 まあまあ色々な、あんねん、と説得する僕の魂胆など、本当に、面倒くさい仕事を回避したいだけだった。今の自分で昔の友人に会ったとして、自分にも、相手にも、良いようなことは何もない。単に、2000円の参加費で食べ放題という所が、テント設営の労働よりも価値がありそうに思ったのだった。
「何時からや」
「七時。…やけど、そら集合とかは六時半とかなるやろうし、そうなったら出発すんのは…」
正直に言ってから後悔した。昼までやから、来い、とため息混じりに言われて、断れるはずもなかった。