さて、わたしたちはつい目をそらしがちだが、このまま穏やかに生活を続けていけるかどうかはわからない。

 

 わたしたち、現代の日本人は武力をもって外国へ侵攻するなど選択肢にすらないとは思うが、周辺国も同じとは限らないからである。

 

 つまり、運が悪ければ、いつでも現代の日本人はどこかの国の侵略下に置かれる可能性は絶対にないとは言い切れないだろう。

 

 

 暗に米国の侵略下にあるではないか、という人間もちらほら見かけるが真の侵略を受けた時、どういう生活が待っているか想像してみればいい。

 

 最悪、かつての恨みも相まって奴隷化されるパターンも想像したか?

 

 米国を嫌う割には米国の軍事力をあてにしていないだろうか。

 

 もしそうであれば、ずいぶん都合がよく身勝手な話である。

 

 わたしたちのご先祖様は、どういう思いであの無茶苦茶な時代の中、死んでいったのだろう。

 

 人間だれしも永遠に生きることは出来ないから、そのうち嫌でもあの世に行く日が来る。

 

 当然、ご先祖様と顔をあわせることになるかもしれない。

 

 何を言われるのか楽しみにしておこうじゃないか。

 

 

 日本はツァーリボンバのような水爆二発ですべてが蒸発するとされる。

 

 もし、何かの間違いで近場から飛んできた核ミサイルが日本本土に命中したとしても、米国が報復するかは謎だ。

 

 なぜかは簡単で、米国領土では無いからである。

 

 下手に事を大きくするのを嫌い、条約を適用する要件にあたるかどうか見極めるという文言を含めた非難声明を出すくらいだろう。

 

 かつて真珠湾攻撃で奇襲をかけてきた敗戦国の民族のために、米国民は米国民で、自分たちの今までの平穏な生活をわざわざ手放してまで行動を起こしてくれるとは到底思えないからだ。

 

 せいぜい核ミサイルを積んだ原潜が形だけやってきて、事態が落ち着くまで留まるだけだと思っておいて損は無いだろう。

 

 そこで日本人は初めて気づくのかもしれない。

 

 他人はあてにならないと。

 

 

 今、台湾有事が実際に武力をもって勃発するとなると、石垣島周辺は間違いなく巻き込まれると言われている。

 

 その場合は嫌でも日本は当事者に引きずり込まれるから、そろそろ何かしら準備はしておく必要があるだろう。

 

 選択肢は二つある。

  • 一発でもいいから核武装をする

  • 徴兵制を復活させ防衛を厚くする

 なお、核武装は自国製によって行わねば意味が無い。肝心な時にソフトウェアレベルで遠隔凍結され、使えないとあっては冗談にもならないからだ。

 

 いや核武装はしないというのであれば、徴兵制を敷いてでも防衛力を強化するほかないだろう。

 

 イスラエルに米国は武器を供与しても参加はしなかった。この点を見てもあてにならないのは明らかだと思うが、やるなら米国にバレないようにこっそりやる必要がありそうではある。

 

 日本国民にとって負担もコストも安く、手早く実現できるなら、防衛装備だと言ってさっさとやった方が良い。

 

 実際に戦闘になってしまえば、防衛もヘチマも無いだろう。

 

 反対するなら、大陸の共産主義者なのかを疑う必要がありそうだ。

 

 

 

※このコラムは2024年10月15日にnote.comに掲載したものです。

 

 

政治家はお金に困らないのでお金をもってる事で偉いと勘違いして国民の生活など真剣に考えてないです

 

 これは令和六年で起きた米の品薄と価格の高騰の際に書いた記事へのコメントだが、これを見てまさか多くの有権者がこのように思っているのではないだろうかという仮説が立った。

 

 

「政治家はお金に困らない」は本当か?

 

 お金に困っていなければ、裏金問題などそもそも起こりはしないだろう。

 

 ちなみに、国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律によると、一般の国会議員で令和六年十月現在、年二回の期末手当と調査研究広報滞在費を含めてざっと計算しても年間三千五百万円程度である。

 

 

 

 

 国から給与が支払われる国家公務員である公設秘書をおけるが、私設秘書を設ける場合は自費で賄う必要がある。

 

 また、政党には選挙の際に得た得票数に応じて、一票あたり数百円の政党交付金が支給される。

 

 選挙にはお金がかかると言われるが、所属する政党が全額面倒を見てくれるのか、あるいはすべて個人負担なのかはそれぞれ異なるだろう。

 

 仮にも日本の国会議員が都内で生活するのもやっとというのでは、それはそれでどうかとは思う上、そもそもそれでは人が集まらない。

 

 公の人物として何かと騒がれる以上、公私ともに常に誰かの目があることを意識しながら生きていく必要がある

 

 最近では年金保険料の納付履歴をはじめとした過去まで探られるようだ。

 

 立場を利用して酒池肉林に溺れているのならともかく、完全に清廉潔白な人物でなければ日本の国会議員の資格なしと言わんばかりの扱いは、まるで某国のような、共産党員資格を得るために人民の模範たる人物でなければならないと迫る勢いで、むしろ共産主義者の疑いを持たざるを得ない。

 

 

 そもそも、公の顔と私人としての顔との両面を見極めたうえで、有権者は自分たちの身を委ねてもよいと思える人物に投票を行ってきたはずである。

 

 その人物たちが使用する費用や、その人物たちが集まる政党に交付される政党交付金は、法律で免除されている分を除いて、政治資金規正法によって公開されているので、問題があるなら罷免するか、次の選挙で落選させるという判断をする必要がある。

 

 つまり、一度でも当選させたならその責任はわたしたち国民にあって、それぞれの有権者にあることを忘れてはならないだろう。

 

 そんな息苦しい立場に自ら進んでなろうという人間は、自分の商売がうまくいかなくなってきたか、かつてJRにタダで乗れるなどとマスコミの前で嬉々として話して顰蹙ひんしゅくを買った元議員のように、そもそもお金を持たず、お金自体に憧れと欲を持った人間が集まるのがむしろ自然だと受け取ってやむを得ないのではないだろうか。

 

 どちらかというと、すでに成功した実業家など、十分にコミュニケーション能力と資力を持った人物が国会議員になったほうが国の利益になるのは誰が見ても明らかだろう。

 

 ゆえに、現実はお金が無い人ほど国会議員になっている可能性が高く、逆にお金と実力を兼ね備えた人物ほど、国会議員になっていない可能性が高いのではないだろうかと思えてならない。

 

お金を持っていることで偉いと勘違いしているのか?

 次に「お金をもっていることで偉いと勘違いして」だが、これは根拠を示すものが無い。

 

 先生と呼ばれることで人によっては偉いと勘違いすることはあるかもしれないが、そもそもそんな人物に投票をするべきではない。

 

 さっさと罷免するか、次の選挙で議席を他に与えるしかないだろう。

 

国民の生活など真剣に考えてないのだろうか?

 これについても具体的な根拠を示すものが無い。

 

 ただ考えられるのは、代々政治家を継ぐ家系や、かつて実業家だった時代に政治家となった人物の子孫であって、庶民の生活水準とズレがある国会議員もいないとは言えないだろう。

 

 経験のない苦労や視点は、残念ながら身をもって知るしかない。

 

 国の利益にならないと考えるのであれば、さっさと罷免するか次の選挙で議席を取り上げたうえで、実際に庶民の生活を経験してもらうことを期待するしかないのかもしれない。

 

 冒頭取り上げたコメントのような印象は、世界の歴史を見ても庶民が権力者に抱くものとして決して珍しいものではないだろう。

 

 

 

※このコラムは2024年10月14日にnote.comに掲載したものです。

 

 かつて、言動に対して責任を取るということはすなわち、自らの命を以てという意味を含んだ。

 

 それは少なくとも武士社会の間でそうだったわけで、すべて日本人がそうであったわけではない。

 

 ゆえに、皆等しく現代人もそうあるべきだと言いたいわけでも、思っているわけでも決して無いことを先に断っておく。

 

 

 どこかの誰かも書いていたが、人間口では何とでも言えよう。

 

 従い、自身の身の潔さにより誠意を示すことでそれを証明することが社会的な常識となってゆき、ついにはそれらが郷に入っては郷に従えで、反する者など同族と見なさないとされるのは、ごく自然だったのである。

 

 反するものは命を落としていくわけだから、従う者しか残らなかった。

 

 話題にもしばしばあがるが、例え血を流してでも誉をとりに行く姿に日本人が感動するのは、自らの身を顧みなければみないだけ、その者が取り組む物事や相手に対する誠実さをそこに見出すからだと、そのようにみて差し支えないだろう。

 

 つまり、一人称視点において自身の命よりも周囲の信用を究極に優先した独特の感覚なのである。

 

 この感覚は国際社会から見て恐ろしく独特であって、なぜならば本能的に身を守るはずの生物として当然でなく自然でなど決して無い

 

 では、これは結局何なのかと問われれば、ひとえに自分の子や孫、あるいは家や国を続かせたいという願いや想いへと繋がる。

 

 自分に精一杯できることとして、一身にとがを引き受ける、自分の身を引き換えとすることを暗に条件として、それらを無下に扱わないよう取り計らい、釘を刺すわけである。

 

 たとえそれが正しい手段に拠らなくても、八百万の神信仰が古来より定着する日本では当然に、ず見えない存在を畏れる。

 

 のちわざわいを避けようと思えば、そうして散っていった人間の最期の願いを自ずと受け入れざるを得ないのである。

 

 

  当然そんな社会であるがゆえに、たとえば命乞いをする行為やカネに執着する人間を日本人が古来より嫌うのはごく自然なものだと理解するのはそう難しくはない。

 

 誤解したくないのは、単に命を捨てることに対してではなく、その身の潔さに対して日本人は評価を覚える民族なのである。

 

 たとえば、謹慎などがそれにあたる。

 

 

 さて、賢者こそ度量が大きいのは広くご存じのとおりだが、こうも大勢の人間がいるのだから当然そうでないのもいる。

 

 前例となるそれぞれの顛末はおろか仔細しさいも理解できず、頭としっぽだけを取って、かつてあの人も失敗し責任を取って死んだのだから、お前もそうせよという無茶苦茶を通していた時代も無かったとは言わせない。

 

 いくら人間正しくはないと言っても、賢くない人間が実権を握るならば世界はいとも簡単に滅びゆくと想像するのは、火を見るよりも明らかというほかあるまい。

 

 いつの時代の誰であっても、人間は良くも悪くもやりすぎるからだ。

 

 これには常に真の反省が前提にて不可欠である。

 

 

 さあ、ここまで話を進めてようやく政治の話までたどり着いたようだ。

 

 どうだろう、真に感情的になる人間に政治が務まるだろうか。

 どうだろう、あなたは賢者を見つけて身を任せることができるだろうか。

 どうだろう、なんならあなた自身が賢者の道を歩む気はないだろうか。

 

 そもそも人間自体が正しい存在などと口が裂けても言えない以上、所詮は一時いっときの手段として政治をしてでも、時の責任を持って我々の国が子々孫々絶えることなく繫栄することを願うばかりと思うほかない。

 

 あなたはどう思うだろう。

 

 

 

※このコラムは2024年10月13日にnote.comに掲載したものです。

 

 前回では、話の流れからマーケットプレイスは国で、じゃあその利用者が支払う手数料は税金だと例えた。

 

 そして最後に、読んだあなたがそれらわたしが撒くだけ撒いた材料を目の前に並べたうえでどう考えるかとなげかけて締めくくったはずである。

 

 営利目的企業と国の違いという前置きをした上でだ。

 

 

 これが戦前ならけしからんと批判されたかもしれない。そうならば間違いなくそれだけでは済まないだろう。

 

 陛下のお国と庶民が営む企業、ましてや卑しくも利益を目的とする集団と比べるなど非礼極まりない、とんでもない思想を持つ国賊とされてもおかしくなどない。

 

 それを思えば、今はまさにそんな時代と比べれば、言論の自由をわたしたち国民一人一人が手にしているはずだ。

 

 あなたは、今よりそんな時代の方が良いだろうか?

 

 

 さて話すべきはまだ始まったばかりで、そもそも国民が一人たりともいない国など誰がどう思おうが無いものに過ぎない。

 

 つまり、国民なくして国は存在することが出来ない。また国民が揃って統治者に刃を向けるならば、同じく無いものと同じだ。

 

 江戸時代以前のように、たとえ同じ民族同士であっても覇権や領地を争って国を分けてきた。

 

 大陸では清王朝までを見てもそれまでどれだけの争いが繰り広げられてきたことか語るまでも無いだろう。

 

 そうして、誰が統治するか支配するか、どの土地は誰のものだ、正しきは何かと、人間は互いに文字通り命をかけて争ってきたのである。

 

 

 かつてヨーロッパによる植民地獲得戦争がアジアにも例外なくおよび、アジアはアジア人によって統治されるべきだという大義名分のもと、なだれ込んだ世界大戦が大きな転換点となった。

 

 その時、日本国民のだれもが広島や長崎が人類史上初の原子爆弾にあれほど無惨に焼かれるなど想像すらしていなかっただろう。

 

 世界大戦は当然に泥沼化し、どのくらいの人間の命が各国の統治者によって消費されてきたかなど考えたくもないはずである。

 

 そうなると当初の大義名分どころではなく、もはや失われた命に対して申し訳が立たない、ただひたすらその重責に押しつぶされそうになりながら、後戻りのできない状況に追い込まれるわけだ。

 

 我が国で言えば当時、戦争はやめようなどそのようなことを口にするだけで、それはもう簡単に罪に問われ処刑されただろう。

 

 結局、大戦では最後まで残った日本が世界の敵という形で幕を閉じた。

 

 おかしくもヨーロッパの植民地支配に疑問を持って始まったはずの戦争は、どういうわけか日本人のわたしたちがただひたすら悪いというよくわからない感覚を植えつけられて今に至る。

 

 わたしたちはかつての犠牲の上に今を生きている。

 

 少なくとも、大戦の中で食料も乏しく疫病蔓延する酷い前線でご先祖は敵と戦い、本土では本土で弱気な物言いをする者や異を唱える者を始末してきたのである。

 

 誰もが正しくなどなかったはずだ。

 

 

※このコラムは2024年10月11日にnote.comに掲載したものです。

 

 お米の品薄と高騰が騒がれた際、従来の小売店に繋がる物の供給に加え、通信技術と個人が手に出来るほどに安価になった端末の進化に伴う、社会に供給されるサービスの多様化によって登場したマーケットプレイスの存在について話題にしたことがある。

 

 マーケットプレイスにもそのサービスが持つブランドによって性質が異なり、いわゆるインターネットストアという製造生産者から直接供給される品物を消費者へ供給するモデルと、消費者が所有する品物を出品するフリーマーケットの場を提供するモデルをとるものと、一見して異なるようだが誰がどのような品物を供給するかの違いだけであって、仕組みとしてはほぼ同じだといえる。

 

 両者に共通する大きなテクニカルプロフィットは、自身が持つ決済システムで利用者の取引の安全を提供する代わりに、売り上げ代金から手数料を差し引けるという、取り逃しが確実になくなる仕組みだろう。

 

 しかもそれだけではない。自社の持つ決済システムを経るということはそれだけセンシティブな情報を両者から自然に取得できることを意味する。

 

 つまり、具体的な年齢から利用する個人や法人がどんなものを扱いどんなものを買い、連続して得られるデータから趣味嗜好に至るまで把握することができるのだ。

 

 利用者の取引の安全を確保できるのだから、それを宣伝材料にもできる。

 

 場を提供する自分自身の手数料収入の安全も確保できるうえ、さらに幅広く情報収集もできるのだから、これが自分ならインターネットに足を向けて寝ることは出来ない。

 

 さて、ここまでの前置きの話から、話題にしたい要素を抽出してみよう。2点ほどある。

  • 場の利用者から手数料を徴収する

  • 取り引きの安全を提供しつつ確実にその手数料を徴収する

 ここでいうマーケットプレイスが国ならば、手数料は税金である。

 

営利目的企業と国の違い

 今や我々が気軽に利用できるマーケットプレイスは、一般に営利を目的とする法人企業が提供するサービスであって、利用者は手数料を支払うからこそ利用することができる。

 

 利用者は代金のやり取りに自分の銀行口座番号を教える必要もなく、サービス内の決済システムで確実に商品を受け取れば代金を販売者に支払う仕組みまで備えているから、受け取った商品に問題があれば代金の支払いを保留出来たり、明らかに商品を受け取っているのにいつまでも代金が支払われないと、運営側で自動的に支払いが実行される仕組みまで兼ね備えているから、安心して取引ができる。

 

 しかも、商品のやり取りにしても配送業者と包括契約を結んでいるために、利用者は配送業者に発送代金を自身で支払うことなく、商品を引き渡すだけでいい。

 

 無事に取引が完了次第、売上代金から手数料と共に運営側が定める配送料金も差し引かれるからだ。

 

 この仕組みを最初に見た時に、これは良く出来ていると感動したことを覚えている。

 

 営利企業であるから、自身が提供できるサービスの質を常に更新向上していかないと、競合相手に容易く利用者を奪われてしまう。

 

 そうなると苦労してせっかく積み上げてきた仕組みはおろか、関係する社員もろとも、いとも簡単に路頭に迷うことになるだろう。

 

 このように営利を目的とするとは言え、得た利益を丸ごと食いつぶすような馬鹿な真似は出来ない。

 

 いかに利用者を奪われないように、飽きられないように、自身が提供するサービスの質と仕組みの幅を広げるにはどうしたらいいかと考え続け、得た利益を再投資していくのである。

 

 さて、先ほどマーケットプレイスが国ならば、手数料は税金だと例えた。

 

 今我々が住む国はどうだろうか。

 

 ここまで読んでくれたあなたなら、これら材料を手掛かりに少しばかり考えるくらいのことはさぞ容易いだろう。

 

 

※このコラムは2024年10月10日にnote.comに掲載したものです。