もうタイトルで十分伝わっているかも知れませんね。

 

 

 日頃、様々なコミュニティでやむを得ず活動していらっしゃる中で、言葉に表現しずらいもやもやを抱えて、イライラしていらっしゃる方も探してみると意外に多くいらっしゃるはずです。

集まるバカほど声が大きい

 会社やPTA、その他ママさん会、自治会、例を出せばキリがありませんが、そうした表の世界にも一部存在するバカほど、やたら声が大きかったりします。

 

 

 物理的に声が大きいだけならまだいいのですが、その声がまるで自分たちの総意だと受け取られてしまうことがあります。

 

 

 バカは複雑なことがそもそも理解できません。

 

 

 見つけ方は簡単で、複雑なものを目にすると怒ったり発狂したりします。

 

 

 自分の利益を最優先しますので、例外なく周りがそれに振り回されることになります。

 

 

 指摘しづらいだけに、ついつい許容しがちですが、いつの間にかそれが当たり前になってしまうんですよね。

 

 

 結果、取り返しのつかない所まで来ているなんてザラです。

 

 

 心を鬼にして、それでは困ると止めましょう。

 

 

 歴史的にも、人間同士の争いなんかそれを誰も止めなかったから、エラいことになって巻き込まれ、収拾がつかなかったことが多いと見ています。

 

 

 残念ながら、それを裏付ける証言してくれる人の多くは亡くなっているため、その結晶であるはずの先の大戦から戦後復興を支える時代の空気を知りたかったのですが難しいようです。

 

 

 まずはどんなに細かいことでも賢くあって、かつ限りなく現場に近い人物が主導権を握ることが大変重要です。

 

バカの声はまともな人の声を遮る

 もう多くを語らずとも伝わるはずですが、これが現実のはずです。

 

 

 例として渋滞を想像してみます。自動車免許を持っていて高速道路を運転した経験がある方は想像しやすいはずです。

 

 

 渋滞で身動きが取れない状態でも、緊急車両が通れるように路側帯を一般車両は通行することはできません。

 

 

 しかし一部のバカが路側帯に進入し、すり抜けを図ったところ、あろうことかほかの車と接触して完全に路側帯を塞いでしまったとします。

 

 

 その先で、心筋梗塞を発症して助けを呼ぶ方が現れたらどうでしょう。

 

 

 まず助からない事を周囲は確信します。

 

 

 もし、このまま本当に死亡した場合、そのバカは本来助けられる命までも奪ったことになります。

 

 

 心筋梗塞だけでなく、最近は気候変動の影響が非常に大きいですから、熱中症や気圧変化によって意識を失う人だって少なくありません。

 

 

 さて、そのバカは責任が取れるのでしょうか。

 

無意味な拡散行為も同罪

 最近の法改正で誹謗中傷を含むものをただ拡散する一役を担っただけでも罪に問われるようにはなりました。

 

 

 しかし、基本的には言論の自由がありますので、その判断は慎重になされています。

 

 

 それは別にいいですし、そうすべきだとは思います。

 

 

 ただ、問題なのはそれらが原因で、本来一般に広く認識されるべき情報が、そのバカの量の力で埋没してしまうことです。

 

言論・世論の世界にバカは要らない

 愚痴や妬み、そんなもんは紙のノートを一冊買ってきて、夜な夜なシコシコ書いていればいいはずです。

 

 

 わざわざネットの世界に披露する意味がわかりません。

 

 

 叩いていいですよそんなもん。

 

 

 肝心な時に路側帯が使えないと後悔しますので、会社や家庭での日頃のうっぷんが溜まっている人はちょうどいいサンドバッグを見つけたと思って徹底的に叩いてあげてください。

 

 

 理詰めが一番効きます
先にも申し上げましたが、複雑なものを徹底して嫌うからです。

 

 

 もうネットの世界に居たくないと思ってくれればいいです。

 

 

 あとは適当にゴルフか格安の電車の切符なんか買ってもらって、海か山なんかにお出かけして遊びに行ってもらいましょう

 

 

 どうせ雇ったところで、まともに役になんか立つわけないじゃないですか。

 

 

 その方がよっぽど経済も回って、観光地で小さく経営していらっしゃる温泉旅館や民宿などの所得にもつながるはずですから。

 

 

 

※このコラムは2024年10月25日にnote.comに掲載したものです。

 

 

 本人がどう思っていようと周囲や社会は歩を進め続ける。

 

 

 「価値観を押し付けるな」という価値観を誰かに押し付け続ける限り、周囲はあなたに手を差し伸べることは無いだろう。

 

 

 人間なら他にも掃いて捨てるほどいるからだ。

 

 

 貴族という世襲を含む特権階級支配社会では、後継ぎの無能に無条件で権力が引き継がれる愚かさが顕現したようなどうしようもないものだったが、それから遥かに進歩した現代社会でも、まだ不完全で改良の余地はある。

 

 

 そこに、地中深くからわざわざ掘り出してきて、自らが吸い込む空気中に放出し続けてきた二酸化炭素や水分は、大気の各所に極端な気圧の差を産み出し、現代を生きる我々と子孫を悩ましているわけだ。

 

 

 いつまで、この地球上に人間は存在し続けられるだろうか。

 

 

 すでにチキンレースは始まっているらしい。

 

 

 多少間引くと、その分は生き延びられるのは明らかである。
さて、間引かれるのは誰だろう。

 

 

 原因は気候か、災害か、伝染病か、戦争か。

 

 

 そのうち共存と表面では良い顔をしつつ、自身が生き延びるためにお互いに嵌め合う見えない争いが始まるかもしれない。

 

 

 いやいや、それはもうすでにもう始まっているかも。

 

 

 死にたいのならさっさと死んでくれたらいい。その分、余計な手間と罪悪感にさいなまれる時間が省けるからだ。

 

 

 多くの人間が肉体的にも、精神的にもさぞ助かるだろう。

 

 

 なあに、10年もすればほとんどの人は忘れる。
覚えているとすればせいぜい同族か身内くらいだろう。

 

 

 例え神様がいるとしても、文句ばっかり言っているような人間やその集団には、さすがの神様もさぞイラついているはずだ。

 

 

 考えてもみればいい。

 

 

 縁もゆかりもない人間集団のひとりひとりに恩恵をくまなく十分に与えるわけにもいかず、面倒を見るわけにもいかない。

 

 

 そのくせネチネチと自身の有様を嘆かれるわけだ。

 

 

 もういいから、さっさと死ねと神様もさぞ思うだろう。

 

 

 

 それぞれが自分の食い扶持を稼いでくれれば問題無い。

 

 

 会社でもそれは同じで、それぞれが自分の給料分を稼いでくれれば、会社が潰れることはない。

 

 

 しかし、現実はそうではない。

 

 

 自分の事は棚に上げて、権利だけを声高々に主張する。

 

 

 いっそいなくなってくれればいいのに。
そう思うのを誰が責められようか。

 

 

 

 社長が買い取ったあの、ごみ収集事業会社だがある程度の人員整理が出来て数か月経つ。

 

 

 汎用ロボットもあることにはあるが、一台一台が高価なうえに公道をうろつかせるには行政の許可が必要ときた。

 

 

 わたしがいるこの会社は、主に海外の多種多様なAIに接続はするものの、各拠点で莫大なデータを保管しているというだけにすぎない。

 

 

 21世紀初頭には個人がTB(テラバイト)単位の半導体ストレージを手にすることが出来たが、それからPB(ペタバイト)ほどまで技術が進んだものの頭打ちとなった。

 

 

 半導体以上の存在や技術が必要になったからだ。

 

 

 さて、現状新たな事業に意欲はあるものの、それは無在庫経営のこれまでのスタイルを覆すつもりは無いのが本音だ。

 

 

「ちょっと離れてるけど、もっと大きい会社さんが買い取ってくれるってさ。」

 

 

 社長が、笑顔でそう教えてくれた。
いつにも増して機嫌がよさそうである。

 

 

 餅は餅屋。
あの先輩たちもいよいよ大手企業の社員のひとりになるというわけだ。

 

 

 そちらの会社の方が、長年のノウハウと業界事情にも当然に詳しいだろうから、もし収集の自動化に財と時間を投じるなら一番向いているだろう。

 

 

 そして、もしストレージ技術が必要になれば、うちの会社との縁があることから案件を真っ先によこしてくれるという期待が出来る。

 

 

 遠足は帰るまでが遠足。
投資も買って売るまでが投資だ。

 

 

 少しスッキリしすぎた気がする。
空いた拠点には藤沢さんが専属で割り当てられることになった。

 

 

 こうして、会社という組織は見えない所で、一部の認められた人間同士の間で最適化が進められていくのを知っておく必要があるかもしれないが、多くにとっては難しい話だろう。

 

 

 

※この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在する人物や団体と一切関係がありません。

 

※この作品は2024年5月18日にnote.comに掲載したものです。

 

 

 母国語の文字を読み書きできるようになれば、そこから先は無限大ともいえる知識にアクセスが可能になります。

 

 

 漢字検定3級程度の識字能力を持てばほぼ不自由はないでしょう。ここまでは考え得る教育の在り方として大前提で共通するはずです。

 

 

 問題はその先で今回のお話の「核」にあたります。

 

最低限必要な教育を常に厳選する

 これをやるのをサボってませんかね。

 

 

 日本人のアイデンティティである文字教育を、多いからといって減らせと言いたいわけではありません。

 

 

 例えば、常用漢字外の文字を学ぶのは各々の趣味でいいはずです。

 

 

 魚や鉄道、バスや掃除機に至るまで、それぞれまだ10歳にも満たない子供がとんでもない知識を披露してくれたりします。

 

 

 日本の皇室に関する日本書紀からなる歴史は、将来皇室を納税者として支える意味から知る必要はあるだろうというように、子孫を繋ぐための性教育を含めて意味がなくては、時間とお金を掛ける意味がありません。

 

 

 根拠なく、なんでもかんでも学習指導要領に含めていませんか?

 

 

 やたら数百年、数千年も昔の年表を具体的な数字まで含めて、教育を受ける子供すべてが果たして覚える必要があるのでしょうか。

 

 

 歴史の年号なんて研究次第でちょくちょく変わるもので、そんな曖昧なものに貴重な一分一秒を割かせて嘆かわしく思いますがいかがでしょうか。

 

 

敗戦国としての日本を学ぶ

 縄文土器や埴輪、土偶など日本独特の歴史について触れるのは良いと思いますが、あまりに時間をかけすぎるのもなんだか本当に教えるべき近代史に触れさせたくない、そんな意図を感じざるを得ません。

 

 

 敗戦から一世紀に向かうに当たって、日本の占領国であった米国も一度手にした日本への強大な権力をそんなに簡単に手放しはしないでしょう。

 

 

 現在の日本国憲法が、前文から違和感のある文体なのは原文の英語を和訳させ、それをそのまま採用したからだということは有名です。

 

 

 ということは、有名な憲法九条も当然そうなりますが、朝鮮戦争の勃発でGHQは自衛隊の前身である警察予備隊を組織させました。

 

 

 つまり、これらすべては時の米国の意図であることがわかります。

 

 

 わたしたちは、自分たちの身を守るためにも、どうやって少しずつ米国から何を取り返していくのかを考えて実践していく必要がありそうです。

 

 

 なぜなら、北朝鮮、中華人民共和国が、ロシアとウクライナのように一線を越えることは絶対に無いと誰も保障できないからです。

 

 

 それとも、あなたが保障してくれますか?

 

 

日本人を蔑む外国人はいる

 かつて日本は米国に親しみを見せながら、その裏で真珠湾攻撃という結果的に卑怯な奇襲攻撃を仕掛けることになってしまい、大きな恨みを買いました。

 

 

 現代の米国人は日本人に対してそのような姿を見せませんが、当時を知る米軍退役軍人のお年寄りはなおも「Jap」と強く嫌う人がいます。

 

 

 ウェブサイト上でもサブドメインに「jap」を使い、クレジットカード情報を盗み取る情報商材サイトが存在しています。

 

 

 PCからアクセスする場合は、ウイルスを回避しつつ安全に気を遣いながら見る必要があります。

 

 

 スマートフォンではURLがわかりにくいので、うっかり本家のサイトと勘違いして口座番号や暗証番号を入力してしまったりする恐れがあります。

 

 

自分を守るために

 各国との日本人の関係や歴史を知っておくのは、海外に渡航する際や、その国のサービスを利用する上で非常に重要です。

 

 

 日本の敗戦にまつわる近代史は、政府にとって都合が悪いかもしれませんが、自分たちの命を守る上で非常に重要な判断材料になります。

 

 

 例えば、中華人民共和国の現在の体制になるまでの歴史などは知っておいて損はありません。

 

 

 民間人だからまさかと思って入国したは良いものの、スパイ容疑を掛けられて拘束されるなんてことは思ったより簡単に起こることです。

 

 

前提のある教育

 個人の趣味に任せていい知識と、生きていくために必要になる知識、これらを厳選することを、最低限怠ってはいけません。

 

 

 そうした、あえて名をつけるなら「前提のある教育」を提供したにも関わらず、本人の理解が追いつかないか諦めたか、不幸にして命を落としたとしても国は必要以上の責任を取る必要がなくなります。

 

 

 例えば、塩素系洗剤と酸性のクエン酸を混ぜれば塩素が発生しますが、これが危険なことは現在の教育でも知られているはずです。

 

 

 しかも空気より重いためにいつの間にか充満します。

 

 

 第二次世界大戦でも使用された非人道的な毒ガスとして有名な塩素は簡単に人の命を奪ってしまいます。

 

 

 しかし、結果はまるで網の目を潜り抜けた魚のように、教えられていないという人たちがそこそこ存在するのが現実でしょう。

 

 

 これは、無駄と思えるものと命に関わるものをごっちゃにして機械的に教えた結果、すべてが無駄なように認識されてしまっている可能性が高いはずです。

 

 

 最低限自分の命を守るための教育、各々の好奇心によって研究を深めるための教育、今日よりも明日を良くするための教育というように、前提のある教育を実践していかねば、せっかくやる意味がありません。

 

 

 国民一人一人にかけるコストが教育によって生涯にわたり安くなれば、その管理や運営に必要以上に費用をかけなくてもよくなるため、必要以上に税金を徴収する必要がなくなる可能性が高くなります。

 

 

 国民だけでなく、国も賢くありたいものです。

 

 

 

※このコラムは2024年10月24日にnote.comに掲載したものです。

 

 

 教育とは「記憶力を正確に極限まで鍛えること」なのであれば、現状で行われている日本の教育は正解といえるはずです。

 

 

 となると、それこそインターネット(以降、ネットという)上で動画などを活用した通信教育だけでよさそうですが、そうは思わないんでしょう?

 

 

 集団行動だとか協調性だとか、実にそれはもう多くの人が夜明けまで語ってくれそうです。

 

 

 日本人は、本音をなかなか口にしません。なんなら、直接言わずに相手に悟らせることを美学とする(厄介な)面を持っています。

 

 

 本音にはせいぜい「上下関係を学べ」があるでしょう。

 

 

 そこまで言うなら、徴兵制を採れば一発な気がします。

 

 

 長引くウクライナ戦争ですが2024年10月現在、ロシアでは五十代以上を徴兵しだしたとか。

 

 

 日本はまさに資本主義と共産主義の対立の前線にあるようなもんですから、時間の問題と言えば時間の問題と考え、危機感を持ちながら日々の防衛を担う現職の方も決して少なくは無いはずです。

 

 

 敵国が揚陸艦をどのくらい持っているかにもよりますが、核は使えないとしても明確な説得力を持つ抑止力を持たない日本においては、一度踏み込まれると対症療法的な人的資本の投入が長引くかもしれません。

 

 

 

 そうした短絡的な暴力に訴える事態にならないように、我々は平和を学び、その叡智によってお互いの命を保障してきたはずです。

 

 

 識字率の高さは、お互いの意思相通のためにとても重要であって、その役割を今日こんにちにおいても十分に果たしています。

 

 

 でなければ、いちいち会話だけで意思疎通を図らなければなりません。

 

 

 これでは、肝心な情報やその意思が伝わる前に、厄介なやる気のある無能が口よりも先に手を出してしまいかねませんから。

 

 

 

 識字率にバラつきがある海外では、民主的な選挙を行うのも苦労するようで、候補者と簡単な絵を紐づけて表現するなどの工夫が見られます。

 

 

 そもそも、投票所まで案内するにも事前に入場券を郵送するなど、そんな仕組みも予算もない国も多いでしょうから、どうしているのでしょうね。

 

 

 

 英語圏では大小アルファベットとアラビア数字を覚えてしまえば、一定の識字率は獲得したと言っていいでしょう。

 

 

 一方で日本はというと、それだけではありませんよね。

  • ひらがな

  • カタカナ

  • 常用漢字

  • 英数

 文字を覚えるだけでも大変です。

 

 

 つまり、日本では少なくとも文字を覚えるに必要な時間が英語圏の海外よりも多く必要だということになります。

 

 

 戦後、日本も占領下におかれたときは、公用語を英語にすることが検討されました。

 

 

 しかし、現状はそうではありません。

 

 

 むしろ逆に、英語を習得しようとするとより難解である和訳を前提とした教育方法が取られ、わざと英語が苦手になるように仕向けられている気すらします。

 

 

 わたしは頭がおかしいので、そう思うのでしょうかね。

 

 単発の予定でしたが、次回へ続けます。

 

 

※このコラムは2024年10月23日にnote.comに掲載したものです。

 

 

 人間だけの種族に限定しない無秩序な世界であれば弱肉強食の本能に満ちた世界が本来の姿だろう。

 

 

 知性を持つ生物はたまたま地球上に人間だけであって、民族や宗教、はたまた過去から受け継いだ遺恨や悲願、そして未来へ向けての生存権をかけて各地で争いが続いている。

 

 

 昔と手段や規模が変わったくらいでやっている事自体に大した差はない。

 

 

 

 ソ連が崩壊する前、冷戦と言われた資本主義と共産主義の静かな対立は、お互いを敵国として長きにわたり争ってきた。

 

 

 どちらが正しいのかをテーマにして争ってきたのかは謎だが、少なくとも自分の信じる道はこんなにも素晴らしいという主張がぶつかった姿だったのかもしれない。

 

 

 結果は世界が知るように、共産主義のソ連が崩壊する形で幕を閉じた。

 

 

 今はと言えば、中華人民共和国がかつてのソ連の立ち位置を受け継いでいるだけだろう。

 

 

 

 まあそのうち勝手に崩壊してくれれば、そんなことはどうでもいい。

 

 

 問題なのは、いつか地球上から共産主義が消えてなくなった時、次の争いはどこにシフトするのかが、とてつもなく大きな問題になるだろう。

 

 

 人間の世界の本質として、争いが尽きることは無い。

 

 

 なぜならば、この世は比較でできているからだ。

 

 

 

 主義同士の争いが尽きた時、次は宗教か、はたまた有色人種と白人の争いになるのか。

 

 

 お互いが完全に対等になり、他に替えが効かない貴重な存在も完全に失われた時、お互いがお互いを盲目的に滅ぼしにかかる世界線も無いとは言えないだろう。

 

 

 それらの悲劇を何とか防ぐ役割が、政治という手段なはずである。

 

 

 立場を悪用した癒着や卑怯なことを本意であれ不本意であれ、やってしまう人間をそんな重要な立場に置かせる有権者自体どうかと思うし、まともに実力もカネも持たない無能をそんな重要な立場に置いた責任の所在は誰にあるのかを完全に棚に上げている気がする。

 

 

 やっている事と言えば、やれ帳簿に何を書いていないだの、あの金は何に使っただの、まともに実力もカネも持たない人間同士が一生懸命互いに言い合っている姿を日々世界にさらしている事実に気づいていない所が笑える。

 

 

 真に実力とカネを持つ者は何より刻一刻と過ぎる時間に重きを置く

 

 

 まあ、今日も平和なのだろう。

 

 

 ある意味パーフェクトなのかもしれない。

 

 

 これからもそうして居続けることが出来ればの話だが。

 

 

 

 さて、国連憲章では第二次世界大戦からずいぶん経った2024年現在でも、いわゆる敵国条項は削除されることなく今に受け継がれている。

 

 

 日本も国連加盟国となって半世紀が経過、日本国内の間ではもはや死文化したと言われているが、本当にそうなのかは誰にもわからないままだ。

 

 

 可能性の高さで言えば明確に削除されない以上、日本はまだ彼らの敵国のままなのかもしれない。

 

1. 安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。

2. 本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。

国連憲章 第53条

この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。

国連憲章 第107条

 

 

 表向きは平和条約を結び、争いの無さを演出していても、本当はどう思っているかなど終ぞ解りはしないだろう。

 

 

 それは相手にとっても同じことだ。

 

 

 法や象徴天皇制と体制が変わったとはいえ、天皇陛下と国民という日本の形は変わってはいない。

 

 

 国連憲章の署名国から見て、いまだ国民の天皇陛下に対する忠誠心は健在であって、戦争となればまたあの悪夢がよみがえる。

 

 

 敵国条項を削除できないでいる理由はそれなのだろうか。

 

 

 もしくは多額の資金を拠出してくれる敵国として温存されているだけなのか、ただ単純に面倒なのかその真意はわからないが、何かどうしようもなく見えない壁を感じざるを得ない。

 

 

 

 世界中どこを見渡しても、核兵器を持つ敵国が隣国にあって、対抗できる核を武装していない国は日本くらいだろう。

 

 

 また、そうでなくとも国連憲章の署名国である中華民国へ、中華人民共和国が攻め入る有事となれば、日本が巻き込まれるのは間違いがないはずだ。

 

 

 国際法だけでなく国連憲章でも規定されているが、戦闘行為は自国の防衛のみ認められている。

 

 

 もはやそれすらも形だけに成り果ててしまったのだろうか。

であれば余計に、日本も早々に対等な立場に立つ必要が無いわけがない。

 

 

 理由は今回の冒頭で述べたように、弱肉強食の本能に満ちた世界が本来の姿であるはずだからだ。

 

 

 もし突然、人間よりもはるかに高い知能や文明を持った地球外生命体が飛来したらどうなるか。

 

 

 また、今までさんざん糧としてきた牛や豚がある日突如として、恨みを抱えて知性を持ち出すとどうなるか。

 

 

 一転して、人間同士の争いなどほんの些細なこと。
そんなことを言っている場合じゃないとなるかもしれない。

 

 

 実に荒唐無稽な話だが、それに備えるという理由も悪くはない。

 

 

 

 ここまで十回にわたって政治とお金の話と題して話を進めてきた通り、生きていくからには常に何らかの犠牲も伴う以上、真の正しさなどない。

 

 

 それぞれにそれぞれの「正しさ」が存在する以上、まともにぶつかれば争いになるのは当然であろう。

 

 

 我々はどうも政治とお金に振り回されている気がする。
どちらもただの手段に過ぎないというのに。

 

 

 犠牲にすべきは命ではなく、いつだって手段なのである。

 

 

 

※このコラムは2024年10月21日にnote.comに掲載したものです。