人間だけの種族に限定しない無秩序な世界であれば弱肉強食の本能に満ちた世界が本来の姿だろう。
知性を持つ生物はたまたま地球上に人間だけであって、民族や宗教、はたまた過去から受け継いだ遺恨や悲願、そして未来へ向けての生存権をかけて各地で争いが続いている。
昔と手段や規模が変わったくらいでやっている事自体に大した差はない。
ソ連が崩壊する前、冷戦と言われた資本主義と共産主義の静かな対立は、お互いを敵国として長きにわたり争ってきた。
どちらが正しいのかをテーマにして争ってきたのかは謎だが、少なくとも自分の信じる道はこんなにも素晴らしいという主張がぶつかった姿だったのかもしれない。
結果は世界が知るように、共産主義のソ連が崩壊する形で幕を閉じた。
今はと言えば、中華人民共和国がかつてのソ連の立ち位置を受け継いでいるだけだろう。
まあそのうち勝手に崩壊してくれれば、そんなことはどうでもいい。
問題なのは、いつか地球上から共産主義が消えてなくなった時、次の争いはどこにシフトするのかが、とてつもなく大きな問題になるだろう。
人間の世界の本質として、争いが尽きることは無い。
なぜならば、この世は比較でできているからだ。
主義同士の争いが尽きた時、次は宗教か、はたまた有色人種と白人の争いになるのか。
お互いが完全に対等になり、他に替えが効かない貴重な存在も完全に失われた時、お互いがお互いを盲目的に滅ぼしにかかる世界線も無いとは言えないだろう。
それらの悲劇を何とか防ぐ役割が、政治という手段なはずである。
立場を悪用した癒着や卑怯なことを本意であれ不本意であれ、やってしまう人間をそんな重要な立場に置かせる有権者自体どうかと思うし、まともに実力もカネも持たない無能をそんな重要な立場に置いた責任の所在は誰にあるのかを完全に棚に上げている気がする。
やっている事と言えば、やれ帳簿に何を書いていないだの、あの金は何に使っただの、まともに実力もカネも持たない人間同士が一生懸命互いに言い合っている姿を日々世界にさらしている事実に気づいていない所が笑える。
真に実力とカネを持つ者は何より刻一刻と過ぎる時間に重きを置く。
まあ、今日も平和なのだろう。
ある意味パーフェクトなのかもしれない。
これからもそうして居続けることが出来ればの話だが。
さて、国連憲章では第二次世界大戦からずいぶん経った2024年現在でも、いわゆる敵国条項は削除されることなく今に受け継がれている。
日本も国連加盟国となって半世紀が経過、日本国内の間ではもはや死文化したと言われているが、本当にそうなのかは誰にもわからないままだ。
可能性の高さで言えば明確に削除されない以上、日本はまだ彼らの敵国のままなのかもしれない。
1. 安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。
2. 本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。
国連憲章 第53条
この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。
国連憲章 第107条
表向きは平和条約を結び、争いの無さを演出していても、本当はどう思っているかなど終ぞ解りはしないだろう。
それは相手にとっても同じことだ。
法や象徴天皇制と体制が変わったとはいえ、天皇陛下と国民という日本の形は変わってはいない。
国連憲章の署名国から見て、いまだ国民の天皇陛下に対する忠誠心は健在であって、戦争となればまたあの悪夢がよみがえる。
敵国条項を削除できないでいる理由はそれなのだろうか。
もしくは多額の資金を拠出してくれる敵国として温存されているだけなのか、ただ単純に面倒なのかその真意はわからないが、何かどうしようもなく見えない壁を感じざるを得ない。
世界中どこを見渡しても、核兵器を持つ敵国が隣国にあって、対抗できる核を武装していない国は日本くらいだろう。
また、そうでなくとも国連憲章の署名国である中華民国へ、中華人民共和国が攻め入る有事となれば、日本が巻き込まれるのは間違いがないはずだ。
国際法だけでなく国連憲章でも規定されているが、戦闘行為は自国の防衛のみ認められている。
もはやそれすらも形だけに成り果ててしまったのだろうか。
であれば余計に、日本も早々に対等な立場に立つ必要が無いわけがない。
理由は今回の冒頭で述べたように、弱肉強食の本能に満ちた世界が本来の姿であるはずだからだ。
もし突然、人間よりもはるかに高い知能や文明を持った地球外生命体が飛来したらどうなるか。
また、今までさんざん糧としてきた牛や豚がある日突如として、恨みを抱えて知性を持ち出すとどうなるか。
一転して、人間同士の争いなどほんの些細なこと。
そんなことを言っている場合じゃないとなるかもしれない。
実に荒唐無稽な話だが、それに備えるという理由も悪くはない。
ここまで十回にわたって政治とお金の話と題して話を進めてきた通り、生きていくからには常に何らかの犠牲も伴う以上、真の正しさなどない。
それぞれにそれぞれの「正しさ」が存在する以上、まともにぶつかれば争いになるのは当然であろう。
我々はどうも政治とお金に振り回されている気がする。
どちらもただの手段に過ぎないというのに。
犠牲にすべきは命ではなく、いつだって手段なのである。
※このコラムは2024年10月21日にnote.comに掲載したものです。
