金春禅竹を読む〜番外編 | この辺りの見所の者

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2024/5/27

銕仙会能楽研修所二階見所


毎回、能楽研究家の表きよし氏を迎えて金春禅竹を読むの講座。自分は至道要抄と明宿集の一部の講読しか参加出来なかったけど、知のインプットが出来る嬉しさに常に溢れていた。

一区切りを迎えた金春禅竹を読む講座。番外編として禅竹研究の第一人者の高橋悠介氏を迎えての講義。

45分くらいの時間だけど1時間くらいになったかな。


レジュメもガチ。

最初に禅竹作と言われている曲について。自分的に興味深かったのは最新の研究では重衡が元雅作でなく禅竹作と言う説が出て来た事。高橋悠介氏は元雅作説とのこと。


禅竹の能楽論については、ざっくりすれば仏教からの影響力が大。特に中世の密教が元ネタとなっている。


禅竹の作能として、初めて知ったのは歓喜天。禅竹作の定家で式子内親王が定家葛にまとわりつかれる元ネタに歓喜天が関わっている事を知れた。

禅竹フレーズとしては、「散りぢり」の描写の多さ。


身体の根源・世界の始原の志向を禅竹は考えていた。中世の密教からの影響で、「一水」「一露」。

仏教の思想の世界の根源を身体に落とし込みして現象世界を本体とする。〈根本と現象〉


五大(地水火風空)を基本要素とした世界観の中で身体を観念する考え方は覚鑁(鳥羽院政時代の僧)の影響を受けていた。五大を禅竹は能役者の身体に密教的身体性として取り入れた。和歌の五句、五輪塔も五大から。


身体性は能面も単なる木ではなく信ずる事での生身観。密教的身体性から真理を見る。本覚思想という現実にあらわれている存在の重視。


禅竹は仏の世界観を身体性に落とし込みして能を舞おうとしてした。高橋悠介氏の講義で禅竹の中世密教からの影響。後の質疑応答で禅竹と神道との関連を質問した所、ざっくり言えば本地垂迹説による神道は仏教の中の一部分だと言う考えで、リアルに考えたら自分もそうだなと思うた。明治以降の国家神道のイメージでは無い。


表きよし氏と高橋悠介氏の対談があり、禅竹研究の変化で作業仮説から曲を特定するようになり表現の研究となって来ている。その作業が難しい事に変わりは無いと表きよし氏がおっしゃる。


また性悪説から山姥の善悪不二に繋がっていたり。悪にも仏の性質があり、仏にも悪の性質がある。中世は悪とは単なる悪ではなく、例として廃曲の「守屋」は物部守屋がシテで敢えて悪を演じる事で仏に勝たせると言う内容。



ほとんど備忘録のメモ書きとなってしまったが、仏教知らないので書ききれなかった。


最後に清水寛二師が芭蕉のキリを謡い留。


自分も観能的身体性を考えてみたくなった。身体の密度観は観能に大きな作用を自分にもたらしているからだ。舞台からの気を身体に落とし込みをして、また舞台に返す感覚かもしれない。