アリス・アデール フレンチプログラム〜エフェメールに出会えた | この辺りの見所の者

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2024/2/17

武蔵野市民文化会館 小ホール



アリス・アデールを知ったのは最近である。クラシック音楽も、そこそこ好きではあるが知らないピアニストのリサイタルに行く時は勘で決める事が多い。幸いにも現在では動画で演奏を観たり聞いたりする事が出来る。


秋田から秋田新幹線で東京に着くまでYouTubeのアリス・アデールの弾いたフィリップ・エルサンのエフェメールを聞いていた。ドビュッシーの前奏曲や版画の世界観に近い響きだなと思っていたけど、映像だけでも硬質でしなやかに伸びのある響きから、エフェメールがドビュッシーの響きだけでは無いと思わされてしまっていた。


クラシック音楽だけでなく、様々な文野に浅く広く顔を突っ込んでしまう性分で、出来不出来を気にせず感想という名の駄文を書き散らかしている。


それでも、駄文も書けないほどの衝撃を受ける事が、まま起きる。


当日、配布されたプログラムに一切目を通さないで、アリス・アデールの演奏、曲の音色と響きに五感を集中させた。秋田に帰ってからプログラムを開いた。


松尾芭蕉は俳句からインスピレーションを受けた24曲。作曲家のエルサンは日本の伝統芸能にも造詣が深くらしく、俳句だけでなく雅楽や能などからインスピレーションを受けたと思われる曲もあったらしいが、当日は演奏の響きにだけ集中して聴いていたので、印象に残る響きは結構あったのだが、当日はプログラム見てないので、どの曲がどの響きだったのがわからなかった。


6日経った今、照らし合わせてブログを書いている。エフェメールを聴いた翌日に、自分の感性のキャパが受け止めきれずに限界を超えガクッとシャットダウンしたかのように体調不良になり予定より早く秋田に帰る事になってしまった。


〈エフェメール〉


24曲の中から、当日、自分が響きに魅了された曲についてブログを書きたい。

8曲目の芭蕉の弟子の宗波〈月きびし堂の軒端の雨しずく〉

11曲目の〈夏草や兵どもが夢の跡〉は雅楽のイメージがあるらしいが、雅楽も聴きに行ったりするので、響きからは鉦鼓と琵琶と楽太鼓が鳴っているような感じに聴こえる。

14曲目の〈須麿寺や 吹かぬ笛聞く木下闇〉は平経政の青葉の笛の音がピアノから聴こえてきた。


ラスト24曲目〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉松尾芭蕉生前最後の句。辞世の句では無いらしい。プログラムにエルサンはオリヴィエ・グレフが亡くなる直前に芭蕉の句かはインスピレーションを得て書かれた曲。実は先入観無して響きだけを実演で聴いていると、アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲を思い出していた。少女マノンが神に召される直前、バッハのコラールが一瞬現れる場面。


巨大な鐘を鳴らしている音、波紋のリフレインの音、中世の賛美歌(コラール?)のような旋律が一瞬現れてまた鐘の音がかき消して行く。この3つの旋律から、人間が亡くなる瞬間を芭蕉生前の句から、鐘の音はイギリスの詩人ジョン・ダンの「誰がために鐘は鳴る」から死が迫っている事を指し、オリヴィエ・クレフが神に召されていく様を示しているような推測をしてみたくなる。


ゆったりと深い音が次第にフェードアウトして余韻をたっぷり取り曲は終わった。


アリス・アデールに捧げられたエヒェメール。24の句でもあり詩でもあり、自然の音であり鳥の鳴き声でもあり、日本の伝統芸能の旋律であったりと、西洋と日本の文化を凝縮している曲。ドビュッシーやメシアンの流れも感じる。


アリス・アデールは壊れた骨董品では無かった。幻のピアニストは幻影ではなく、現役バリバリとして存在していた。


プログラムの最初のセヴラックの太く構築性のある音色、重心低く、水墨画を思わされる色彩の深淵のドビュッシー、芯のある硬質かつ光沢あるラヴェルの鏡。



アンコールでの深い矯めの呼吸のシューベルトに、カッ飛んだテンポでミスタッチあったものの疾走感あるスカルラッティ。



エフェメールは自分にとって特別な曲となり、演奏したアリス・アデールも特別なピアニストとなった。

作曲家のフィリップ・エルサンも臨席していた事を告げて、ブログの締めくくりとしたい。