感覚の対話〜はだしのスクラッチ パフォーマンス | この辺りの見所の者

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2024/2/12

旧松倉家住宅米蔵


感覚の対話 はだしのスクラッチ 

参加アーティスト


志人

山川冬樹

starRo

秘彗

長浜谷晋

三上健太郎

佐藤元氣

徐 津君

MORI from 3KW

黒井円盤

JWL

nost 

菅原あすか


第8回あきたアート はだしのこころ

身体の五感の一部を失われた人々が研ぎ澄まされた部分からの視点による公募展である。初めて足を運んでみた。失われた事から見えてくるであろう視点からの作品の数々は、世の中の忖度フィルターが無い。企画したのはOVO。去年の6月にパフォーマンスを観る機会があった。

↓その時のブログ



その関連イベントとして出展作家によるパフォーマンスが2/12日に旧松倉家住宅内 米蔵で14時から終了したのは17時と1時間押した。



パフォーマンスは四つ。パフォーマンス後にステートメント。


最初のパフォーマンスは4人以上いたかな。

シンセとDJターンテーブル2台?のスクラッチ。生のクラリネットにリバーブをかけて、ミニマルミュージックのように繰り返しのフレーズ。

自分の記憶に似たようなものを過去に聴いた事があるなと思えてきた。1990年代に、イギリスの現代音楽作曲家ギャビン・ブライヤーズの「タイタニック号の沈没」を思い出した。パフォーマンスのテーマは、はだしのスクラッチ。スクラッチとは傷の事を指す。ミニマルとアンビエントみたいな曲調からクラリネットのテーマ?が溶け合ってドローン的な揺らぎのような音と空間。時間の流れも感覚対話で観る聴く人それぞれ違うのだろう。受け手の身体感覚の対話を試されているようでもあり、無として受け止める人もいるのだろう。パフォーマーの感覚をどう受け止めるのか。

パフォーマンスが始まって、自分的には観能感覚の受け止め方て観る聴くをしようと決めた。五感を研ぎ澄ませて肌に感じるものに委ねるということが、自分の感覚の対話として定まった瞬間。


次のパフォーマンスは朗読の音源(フジワラマリさん)から始まる。途中ラッパーが出てきてリリック。雪を踏む。何回も何回も繰り返される雪を踏むのリリック。秋田の冬の厳しさを物理的にも精神的にも、そこに暮らす人々にも刺さるリリック。

OVO/nostはカッティングアーティストである。録音した声や音をカッティングマシーンで溝を彫りレコードにする。そのレコードをプレイヤーで針を通してその音源に、音を重ね、リリックを重ねていく。スクラッチの音も風や吹雪のように感覚で受け止めている。秋田の冬の大地と生活を自分の感覚の対話。


starRo(スターロー)さんのパフォーマンスが始まる。2016年にグラミー賞ノミネート。それまで自己実現として走り続けたのがグラミー賞ノミネートで山の頂に登ってしまい、後は目の前は崖しかなかった。

アメリカ西海岸から日本に帰り、去年から秋田に来たとの事。帰ってから日本の良さ、侘び寂びに目覚めたらしい。日本は島国であるからこそのトラップであり、自分を見つめ直してから感覚のフラットに目覚めたとのこと。


パフォーマンスの音を聴くと不思議なもので正しいかどうかはわからないが、華のある音、メジャーな音だと自分の感覚の対話として受け止めていた。どのパフォーマンスもOVO/mostさんから提示されたスクラッチテーマからインスパイアされた曲でありパフォーマンス。華の音は、ガラス越しから見た風景らしいが、自分の感覚対話では日本の曜変天目茶碗の紋様が目に見えていた。


フラットというワードからの感覚の気付きが、自分の感覚の対話。



山川冬樹さんのパフォーマンス。秋田市内で何回かお見かけする機会があった。経歴を見ると凄い人らしい。OVO/mostさんから66歳の秋田人の声のカッティングからイメージしたパフォーマンス。秋田人のインタビューの音源に中国の二胡?かなを弾いて、秋田人のお祝いとして犬の遠吠えを裏声で出すパフォーマンス。観客にも一緒にと求める。自分も裏声で何度も犬の遠吠えを叫んだ。裏声で靡き謡みたいになってしまった。唸る声は裏声ではないが、昔、神道をちょい齧った時の祭式の授業で警蹕(けいひつ)という低い声で、あーーーーと伸ばす所作を思い出していた。

観客参加型で66歳のカラッとしたリアリストの秋田人を祝う自分の感覚の対話。


ラストパフォーマンスは志人(シビット)さん。

最初の詩の朗読が、かなり刺さる詩。遭難してサメの背中にいる少女はサメに指を与えて小指しか残っていない。生命ももうすぐ灯が消える直前の詩。強烈な詩。

詩な朗読が終わり、志人さん登場。パフォーマンスなのか寸劇なのか??ハレー彗星からの「いくじなし」と言うワード。能の前場が詩で後場が志人さんのパフォーマンスの様な自分の感覚の対話。


それぞれのパフォーマンスから、観能感覚の感度を上げてからフラットにして観る聴くをする事に気付きを与えてくれたのが、このパフォーマンスに於ける自分の感覚の対話であった、