劇団ウィルパワー オムニバス公演『雨音協奏曲』 | この辺りの見所の者

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2024/1/27

劇団ウィルパワー 第21回演劇公演オムニバス企画『雨音協奏曲』

27日追加公演18:30分の部に行った。場所は旧松倉家住宅米蔵。180年前の建物らしい。

劇団ウィルパワーは、大館の映画館御成座で東北の劇団を集めたミチゲキで初めて観た。


そのときのブログ↑


ドンキホーテで買い物してから、徒歩10分くらい。雪降っててさみい。旧松倉家住宅米蔵前到着。


客席は横並び二列で、自分は左端の二列目に陣取る。何故か、左端が好きなのだ。

オムニバス短編三本で休憩は無く舞台転換の時間のみで、全体の時間は75分。

順番は「箱の中の海」→「貧血鎮魂歌」→「雨音協奏曲」




観劇したあと、直ぐに思ったのは序破急の並びかなと思った。2本目の貧血鎮魂歌は吸血鬼ホラー、3本目の雨音協奏曲は妙齢の男女の話。

1本目の箱の中の海。観劇し終わった後から、じわじわと心のざわざわの皺が身体をに静かに迫ってくる。

このブログは箱の中の海を中心に書くつもりでいる。


とある大学のカフェで、万年大学院生の海野、卒業して営業リーマンの川元、大学の後輩の女性の山根。人魚というファンタジーと津波に襲われたトラウマの海野の重層が作品の核なのかなと思ったりした。


何故、神話に登場する人魚を作品のキーとしたのか。それが気になって、人魚を検査してみると二面性の意味合いがあるのを見て、海野と人魚は海野の深層の二面性なのではと強引な考察をしてみる。何処までがリアルかファンタジーかは曖昧であり、結論から言えば、海野は山根の実家のある海無し県の山梨に行くだろうと示唆して終わる。津波に再び襲われる場面はリアルが夢幻なのか、海野の精神世界が描かれていたのではないかと今は思っている。勝手な想像と考察は観客の特権でもある。舞台空間の照明の効果も良く、繊細な色合いの照明が場面で使われ、色から心理を探る事も出来る。


海野は救済されたのだろうか。山根と山梨県に行って、物理的に海に接する事は無くなったとしても、精神はいつまでも解放される事は無いのではないだろうか。災害が人間の心理にいつまでも留まり続けている残酷さを感じた。人魚という神話ファンタジーで、その残酷さをオブラートに包んでいた重層的な作品では無いかなと勝手に解釈してみた。


1本目は海、2本目は雪、3本目は雨音、雪も水分であると仮定すれば3本の作品に共通するのは水。水は浄化の意味があるらしい。また津波の荒ぶりもあったりする。

書いていて、気づいたが3本の短編に共通しているもう一つは心の二面性である。人間の心の二面性が、「箱の中の海」では人形、「貧血鎮魂歌」では姿は見えない吸血鬼、「雨音協奏曲」での人の強気と弱気として示されている。

「箱の中の海」では水の恐怖、「貧血鎮魂歌」では吹雪と人間の闇。「雨音協奏曲」の雨音でようやく浄化された気がした。


能好きなので、強引にはなるが悲劇の曲の後には附祝言というめでたい曲の一節を地謡(コーラス)を謡い終了する。浄化の意味合いもあるのだと思っている。「箱の中の海」と「貧血鎮魂歌」から「雨音協奏曲」で浄化された流れだったかなと解釈した。


役者さんたちは作品の世界観に準じて演じていたと思う。