ミチゲキ2022 秋田公演に行ってきた | この辺りの見所の者

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気ままなブログです。


ミチゲキとは、みちのく演劇フェスティバルのことで東北各地を東北六県の若手演劇人の舞台を3か月に渡り上演。


秋田県湯沢市の自宅から大館市の会場の御成座まで車で片道4時間。遠いよ、仙台に行く方が近いよ。


朝の6時に出発して10時に到着。秋北食堂で馬肉定食食べて


秋田犬の里の駐車場に車を停めて、開場の12:20分まで車中で仮眠。



11月12日

13時の部。この日は宮城→岩手→秋田の順番で若手演劇人の舞台。テーマは距離。


ぶっつけ本番で観た。




最初は宮城の、三桜OG劇団ブルーマーで『引き出しの奥に・いつかの春と・愛を込めて』短編が3本続く。なんか濱口竜介監督の『偶然と想像』を思い出していた。テーマの距離は記憶との距離。さりげない日常やファンタジーでの曖昧な記憶からの出来事が3本の短編に共通している。すべてを記憶すると、たぶん人は壊れてしまう。だから忘れるというワードは大事な事なのかも知れないなと舞台観て感じた。


次は岩手の、演劇ユニットせのび。『スコープ』

演出出演の村田青葉さんのセンスが自分の好みかな。公園での街灯と鳩と人の組み合わせなんて、なかなか思いつかない。劇伴にモーツァルトを入れたりしている。街灯と鳩と人の台詞劇が成立してしまう演出はセンスを感じる。テーマの距離は、人の心の距離。

フィクションから、結構エグい事を人は言っているが、フィクション設定で重くはならなくて、ちょいと軽みっぽい。街灯、鳩、人の長台詞が続くが、舞台装置は三つの舞台の中では1番シンプルで、台詞の力で舞台空間を創り出していたように思えた。


ラストは秋田エンゲキユニットえんむすびの『しばられ、ほどいて、むすぶ。』

この舞台は、自分にはある意味難解でもあり、能好きの自分から見て、舞台装置の強烈さに眼を奪われた。2本の木に繋がれている、幾つの赤と白の線。あの世とこの世との境目、心の距離の境目が、あの舞台装置の絶大な効果。ささきあみさんの一人芝居。東北の震災から孤独を抱えた女性の人生が、時には赤い糸を紡いでいたり、妊婦として海を訪れていたり。ラストは舞台装置の外側に出て来て、夫婦と子供と前向きに生きるという終わりに一応見えるが、実在と霊魂が揺れ動くように見えてしまった。病気の旦那や自ら生命を絶った女性が伏線として現れて、途中からあの世でのやり取りとしてラストに至っているのだろうか。

自分が感じたのは、ハッピーエンドでは無かった。前向きに語る女性と子供は、既にこの世にはいない。震災から彷徨い続ける心の距離がそこにある。いろんな解釈が出来る作品だといえる。もちろん前向きのメッセージだと解釈する人もいるだろう。重層的なメッセージがある作品。


この作品は、能好きの自分にとって『野宮』との共通を感じざるを得ない。『野宮』の舞台装置は鳥居である。主人公の六条御息所は鳥居から一歩踏み出して、すぐ戻る。

『しばられ、ほどいて、むすぶ』は舞台装置を突き抜けて外側に出ていて前向きに語る。


自分の解釈は、病気で旦那を亡くし、女性は妊婦のまま自ら命を絶ち、三人で彷徨い続けている。前向きとは裏腹で明確な距離がそこにある。ドッペルゲンガーの要素もあるのだろうか。


アフタートークで演出の髙瀬奈穂子さんは余白を大事にしたと仰っていた。能に造詣がある方なのだろうか。ハッピーエンドに取れたり、彷徨い続ける心の距離に取れたり、重層的な解釈を余白から読み取る事が出来る喜びを感じれた事は作品のチカラの成せる技なのか。


推敲しないで、思うがままに書き殴ったブログになってしまった。距離と云うテーマから、これほど視点の違うアプローチでの三つの作品に接して、解釈して思考する事が出来た嬉しさを隠す事が出来ないでいるのだ。