クルレンツィスの悲愴は叫びか呻きか | この辺りの見所の者

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今回の来阪のメインは、テオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナ。来日オーケストラ公演に行くのは、伊勢に行く2011年より前が最後だった。

今年はクラシックのコンサートに行くと決めていたので、クルレンツィス 、ムジカエテルナの来日公演は是非にも行きたかった。幸いにも大阪公演は1番安い席を取れたし、フェスティバルホールは大阪フィルの定期で幾度も行っていた。
フェスティバルホールの3階席のやや左側の1番後ろの席。

思いついたまま書くけど、クルレンツィス  の悲愴。前のコパチンスチカヤのソリストでのチャイコフスキーVI協奏曲では座っていたムジカエテルナ。
悲愴では、チェロ、コントラバス、木管、金管の一部(未確認)以外は立奏。

チャイコフスキーの悲愴の第4楽章の最初の音が鳴った時に、あまりの深いえぐみに胸が締めつけられた。まるで、叫びか呻きのように。
音に魂が宿るということはこういうことなのだろうな。
それは立奏による効果もある気がしてならない。
もちろん、全ての楽章が良かったというわけではないけど。4楽章が終わり、クルレンツィスが指揮棒を降ろすまで1分くらい?あったかな。

音のエネルギーが物理的だけでなく、気の宿るもので、クルレンツィスとムジカエテルナにエネルギーを吸われてしまった感がある。
音楽の生きる気というものを実感したな。

東京ではあったアンコールは大阪では無かったけど、あの精魂込めた演奏聴いたら要らない。


前半のコパチンスカヤ。グルーヴ感が満載のライブを聴いている様だった。チャイコフスキーでヴァイオリンの音のダンスみたいだった。これはこれでアリ。
アンコールは藤倉 大。
現代音楽的だけど、日本の膨らみとねっとりさが音にに現れていた。

あるもこれも書きたいけど、悲愴4楽章冒頭に尽きる。忘れられない。

2、3日、エネルギー消耗で回復出来なかったよ。