↑のつづき。
さて、『長ノ国』。
さらに阿南市の旅はつづく。
賀志波比売神社を後にして車で20分。
やってきたのは阿南市『長生(ながいけ)町』。
以前、
千葉県に出張に行った際に参拝した
上総国一宮『玉前神社』は、
長生(ちょうせい)郡一宮町に鎮座していた。
この地名は『長ノ国』の痕跡であり、
阿波忌部が房総半島に遺した痕跡だろう。

ここはもう参道。
画像では見えづらいが、
向こうに一の鳥居がある。

たどり着いたのは『八桙神社』。
『国指定重要文化財』の碑は
とても誇らしげだった。

「あそこに神社があります」
と言わんばかりの素敵な森。
しかも、ここの地名は
長生町宮内❗
元は天皇領だったということだ。

二の鳥居。

鳥居をくぐって振り返った景色。
長ノ国、良いところだ。
阿南市ホームページより↓
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周辺には八桙山古墳群があり、かつて
八桙神社から津峯山へつながる参道は
桜街道として地域の人々でにぎわったとされ
別名也保古神社ともいわれて、
現在でも子どもの安全息災の神としても
信仰を集めている。
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阿波特有の五角形『地神塚』。
大好きです。

三の鳥居が見えてきた。
右側には境内社『奥山神社』。
祭神は少彦名命。
八桙神社の案内板もあった↓
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一、
八桙神社は上古長ノ国造の祖神として
竹原庄要津に鎮座す
長ノ国は北方粟ノ国と相対して
阿波民族の源を形成す
一、
承平四年朱雀天皇の御宇
歌聖紀貫之土佐守の任満ちて
上洛の途上南海水道にさしかかりし時
豪勢なる海賊に出逢い航行不能となる
直ちに那賀川河口に碇泊西潟なる
竹原庄の要津に松壖栢城高く聳へ立ち
威光海上を圧する八桙大明神に祈願奉幣す
忽ち「霊験早印下之泥」
海上無恙上洛せりとあり
一、
長寛元年九月二十五日
関白左大臣左大将正二位藤原基実卿
後白河上皇の勅命を承け
法華八講料として免租水田五段と
紺紙金泥法華経一部八巻合せて
五種十二巻を奉納しこの善根に依り
後白河上皇二条帝の宝祚を寿命長遠に
併せて二品家一門の神徳冥助を乞い
並に南海水道の海上安全を祈願す。
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愛嬌のある狛犬。


三の鳥居。
横には『皇太子殿下行啓記念碑』。
平成3年、
皇太子殿下(現今上天皇陛下)が
「中世の海運」御研究のため行啓された。
現在の天皇陛下がこの八桙神社に
来られたのである❗
ここの地名は
『宮内(くない)』ですからね。

長い石段を登る。
中々急な角度だった。

拝殿。
延喜式内社 阿波国那賀郡 式内小社
『八桙(やほこ・やちほこ)神社』
鎮座地 徳島県阿南市長生町宮内
創建 不詳
別名 也保古神社・八桙大明神
祭神 大己貴命(大国主命、八千矛神)
大国主の別名『八桙(八千矛)神』の
名を冠する式内社は全国でもこの神社のみ。
一説には、
建御名方神の子の『八杵命(やきねのみこと)』
とも云われている。
類似した社名の神社を参考にすると、
石川県羽咋郡志賀町の『八千鉾神社』、
大分市大字高瀬の『八鉾神社』が
挙げられるが、そのどちらにも
大己貴命(大穴牟遅神)が祀られている。
那賀郡長生村地誌は
大宝元年(701年)と記されるが、
八桙神社の由緒には、
「上古長ノ国造の祖神として
竹原庄要津に鎮座す
長ノ国は北方粟ノ国と相対して
阿波民族の源を形成す」
と書かれているように、
八桙神社の原型はさらに古くから
存在していたように思える。
前述したとおり、八桙神社の由緒でも
「長ノ国造の祖神を祀る」とされる。
『大己貴命(オオナムチ)』の神名は
「大いなる長の国の主」という
意味があるのだそうな。
江戸時代に徳島藩が編纂した
『阿波志』では↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
延喜式亦小祀と為す、
宮内村に在り、八桙寺之を管す、
崇神紀に伝ふ九年三月戊寅、
天皇夢に神人有りて誨へて曰く、
赤盾八枚 赤矛八竿を以て墨坂神を祠れ、
亦黒盾八枚 黒矛八竿を以て
大坂神を祠れ、或は曰く、
恐くは八千桙神と旧事記に伝ふ大己貴、
又の名は八千矛神
三代実録元慶七年十二月二十八日
庚申従五位上を授く。
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とあり、
やはり祭神は大己貴命の可能性が高そうだ。

八桙宮の扁額。
拝殿の中を覗くと、
神紋と思われる紋章が見えた。

横から。
本殿は奥のブルーシートで覆われていた。

拝殿の右側には『宝物殿』。
国指定重要文化財の内容↓
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・木造大己貴命立像
・木造男神立像
・紙本墨書二品家政所下文1巻
(附 紺紙金泥法華経8巻)
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仏像ではなく神像が造られているのは珍しい。
また、紙本墨書二品家政所下文は
徳島県に現存する
最古の文書なのだそうな。

境内社の数々。
『大将軍神社』『山神社』
『神戸神社』『天神社』


さて、そろそろ次に向かいましょう。

恒例の「狛犬の見る景色」。
境内のお隣には八桙寺がある。




めちゃくちゃ素敵な神社だった。


往古には、
ここまで海が届いていたとも云われている。
出雲系海人族の土地ならば、
さもありなん。
長生町とは、
長ノ国の王が生まれたことから
名付けられた地名なのかもしれない。
八桙神社の付近に流れるのは、
徳島県内で最も長い河川である
一級河川那賀(なか)川。
ちなみに、
現在の栃木県と茨城県を流れるのは
一級河川那珂(なか)川。
那珂川は、
『常陸国風土記に記されている通り、
元々『粟河(あわがわ)』と呼ばれていた。
その由来は、
上流に『阿波郷』があったからである。
現在は東茨城郡城里町だが、
それ以前は旧桂(かつら)村だった。
長ノ国には、
勝占(かつら)や勝浦(かつうら)の地名が
今も残っている。↓
そして、千葉県房総半島にも
勝浦があることは周知の事実。
前述した通り、長生も千葉にある。
忌部海部は手を取り合って
日本中に広がっていったのだ。
この八桙神社は『元出雲』の候補地。
まだまだ信じる人は少ない。
しかし、神話のストーリーが
「点」ではなく「線」で繋がるのは
この阿波徳島の史跡だけだという
事実だけは、誰も覆すことは出来ない。
平安時代の源為憲が編纂した
『口遊(くちずさみ)』では、
平安時代の巨大建造物の順位を、
「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」
と記される。
1位は出雲大社。
2位は東大寺大仏殿。
3位は京都御所大極殿。
つまり、
出雲大社が一番巨大だったとされていた。
しかし、
出雲大社は明治4年に改称する以前は、
古代より、杵築大社と呼ばれていた。
江戸時代の地誌『阿府志』には、
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宮内村は古の神領であり、
上古の鳥居跡あり地中に埋まる。
一丈五尺廻り(約4.5m)
二中の間二十間(約36m)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と記されており、
現在の一の鳥居の位置からしても
上古はとても大きな神社だったことが
推測されるのである。
阿波国の延喜式内社には、
多祁御奈刀弥神社(タケミナカタ)や
事代主神社など、
出雲系の神の名を冠する神社が多く、
それは他国の式内社には
存在しないのだ。
『アメノカゴヤマ』。
古代史好きなら誰もが知っている
あのアメノカゴヤマの真実に迫る❗
つづく。
ではまた❗

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