さて、
阿波徳島の旅の記録も
二日目を終えたので、たまには考察回を。


日本の始まりの神ともいわれる
伊邪那岐命(イザナギ)伊邪那美命(イザナミ)


高いソラの上、神々の住む国高天原

ある日、神々は下界に新たな国を
作ろうと相談した。

国作りの命を受け、
天の沼矛を授けられた二柱の神こそが
伊邪那岐命伊邪那美命である。


二柱の神は天の浮橋の上に立ち、
下界の様子を眺めてみると、
国はまだ水に浮いた油のように漂っていた。


二柱の神は、
天の沼矛で海水を
コオロコオロと掻き回し始めた。


しばらくして矛を引き上げると、
矛の先より滴り落ちる潮が
積もり重なって於能凝呂島が出来上がった。

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考察ポイント①

国はまだ水に浮いた油のように漂っていた。

水と油は互いを弾く存在。

ひとつに成りにくい存在。

つまり、二つの国の和平統合を
互いの代表者である
伊邪那岐命伊邪那美命
任されたのだと解釈出来る。

延喜式内社には、
この二柱の名を冠する神社は、
淡路島の伊弉諾神宮
阿波国美馬の伊射奈美神社のみ。

淡路島は国津神の国、
阿波の吉野川上流はソラと呼ばれ、
高天原の伝承が色濃く残る天津神の国。

徳島と淡路島の間にある
鳴門のうずしおは、
天の沼矛で海水を掻き回したという
比喩表現であり、
二つの国の境目として
重要な役割を担っていた。

伊射奈美神社

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二柱は、於能凝呂島に天降り結婚した。

天の御柱と八尋殿を建て、

伊邪那岐は左回りに、
伊邪那美は右回りに
天の御柱の周囲を巡り、
そうして出逢った所で男女の営みをおこなう。

その時のセリフは、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
伊邪那岐
「あなたの体はどのようになっていますか?」

伊邪那美
「私の体はよく成長しましたが、
 足らないところが一箇所あります」

伊邪那岐
「私の体はよく成長しましたが、
 余ったところが一箇所あります。
 あなたの体の足りないところを、
 私の体の余ったところで塞ぎ、
 国土を生もうと思うが、どうでしょう?」

伊邪那美
「いいでしょう」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

その後、
失敗しながらも
高天原の神々の助言を得て、
淡路島、四国と
島生み神話が始まる。

島を生み終えると、
神生み神話』が始まるのである。

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考察ポイント②

「あなたの体の足りないところを、
 私の体の余ったところで塞ぎ、
 国土を生もうと思うが、どうでしょう?」



『この表現は男女の交わりのことです』と
すでに説明されているために、
「そうでしょうね」としか思わなかったが、
よくよく考えると不可思議である。


伊邪那岐伊邪那美が結ばれたことは
確かだとは思うが、
この時点でおこなっているのは、
神生み』ではなく、
島生み』である。

二柱が元は人間だったと仮定して、
人間が島を生むのは不可能。

つまり、
島生み』とは国の拡大、
の民の国(山都)と
の民の国(淡路)を統合した後、
統治していった島の順番を表現している。


ある程度、国が大きくなった後に
神生み』つまり、子作りが始まったのだ。


と、いうことは、
島生み』でおこなわれた
不思議な口説き文句

「あなたの体の足りないところを、
 私の体の余ったところで塞ぎ、
 国土を生もうと思うが、どうでしょう?」



これは、わざわざ男女の営みを
表現したのではない。

比喩や暗号だらけの古事記で、
この箇所だけがダイレクトな表現など
あり得ないのではなかろうか。


島生み』の手始めに、
自国である淡路島
阿波(高天原)を統合し、

「互いの足りないところを
得意なところで補い合い、
国を発展させていこう」

という誓いを立てたのではなかろうか。


そこで、阿波徳島の吉野川である。


古代、海抜は今より高く、
吉野川は内陸部に入り込んでいた。


淡路島は尖っており
吉野川は凹んでいた。

↑古代、この青い部分までは
海だったのである。


つまり、

「あなたの体の足りないところを、
 私の体の余ったところで塞ぎ、
 国土を生もうと思う」


とは、

「吉野川の足りないとこ
淡路島の余ったところ
塞ぐように、
互いに一体となって
協力して国をつくっていきましょうね」


と言っていたのである。


混ざりにくい油と水を
丁寧にかき混ぜる。

パスタソースの仕上げに
茹で汁を入れるように、
溶け合うことのない水分と油を
混ぜ合わせ『乳化』させるが如く…

である。



そう解釈すれば、
国生み』がうまくいかないときは、
高天原の先輩方に相談しにいったことにも
納得感がある。

天椅立神社
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現代のワタシ達が知っている『古事記』は
原本ではなく『古事記伝』。

つまり、神世から千年以上も後の
江戸時代の解釈本である。


時代の流れ、
文化の発達、
歴史的発見…


それらにより解釈が変わってくることは
至極当然のこと。

今一度、歴史を見つめなおし、
日々の楽しみを実感したいところです。


時に疑り深く、

時に素直に。




つづく。


ではまた❗






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