↑のつづき。
さて、春日神社の境内社に衝撃を受けながら、引き続き境内の様子をお届けします。
境内社
『地神社』。
つまり、この徳島の神社でよく見る五角形の地神塚とおなじ。
五神もおなじ。
五角形の地神塚を他府県で見たときは要注意。
四国となんらかの関連性があるということなのでね。
『若宮社』と『秋葉社』。
秋葉社 祭神 大己貴命
若宮社 祭神 天忍雲根命
『天忍雲根命』は、この春日神社の祭神である、
天児屋根命と天美津玉照比売命の御子神。
だから、「若宮」なのだろう。
そして、天忍雲根命の別名が
『天村雲命(アメノムラクモ)』だとも言われている。
三種の神器のひとつ『天叢雲剣』と同名の神であり、その名を冠する『天村雲神社』は、なんと徳島にしか存在しない。
この神もまた、深掘り対象である。
と、いうことで、拝殿。
『春日神社』
鎮座地 徳島県徳島市眉山町大滝山
創建 不詳
祭神
武甕槌命
斎主命
天児屋根命
比売神
「比売神」は、基本的には祭神の配偶神が祀られている場合が多いため、春日神社では、天児屋根命の妻『天美津玉照比売命(アメノミツタマテルヒメ)』ということになるようだ。
由緒書き↓
眉山の麓、大滝山に鎮り坐す春日神社は、奈良に坐す春日大社の御分社であり御祭神も同じ四柱の神々である。
慶長年間藩祖蜂須賀家政公が渭の津に築城の際名西郡入田の里より神霊を奉遷、鎮祭し奉ってより徳島城下町の総氏神として、歴代藩主を始め上下の崇敬篤く明治初年には県社に列せられた。
当時の社殿を始め主要建築物は、昭和二十年の戦火の為殆ど灰燼に帰したが、其後本殿は二十六年十月に拝殿は三十四年十月に手水舎は六十三年十月にそれぞれ再建され今日に至ったものである。
立派な彫刻だ。
春日神社については、あまり深掘りしたことがないので、この機会に少し調べてみた。
まず、なぜ「春日(はるひ)」を「カスガ」と読むかというと、「カスガ」は元々は地名であり、
その地名を表現する際に、和歌の枕詞に
「春日(はるひ)のカスガ」と表現していた為、読み方が漢字に移り、ひとつになって
「春日(カスガ)」と書くようになったのだそうな。
ちなみに、「カスガ」の由来にも諸説あり、
「霞がかる」などの他、「神の住処(すみか)」だとも言われている。
かっけー。
もしかしたら、古代の人は、
霞の向こうに神様が住んでいたと
考えたのかもしれませんね。
※神というより仙人みたいだけど(笑)
さて、春日神社といえば、ここだろう。
奈良県奈良市春日野町に鎮座する『春日大社』。
祭神はこの春日神社と同じ四神。
タケミカヅチ
フツヌシ
アメノコヤネ
ヒメカミ
四神を総称して「春日神」と呼ぶ。
中臣氏(藤原氏)の氏神、守護神だとされている。
主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
創建は奈良時代の768年。
割と有名な神社だが、意外と新しい。
平城京を守護するために造られた。
そこで、春日大社の元宮があるのでは…と探したところ、一般的に知られているのは二社。
共に大阪府に鎮座する、枚岡神社と恩智神社は
『元春日』と言われている。
●河内国一宮『枚岡神社』
鎮座地 大阪府東大阪市出雲井町
創建 伝承では神武天皇即位より3年前
祭神
第一殿:天児屋根命
第二殿:比売御神
第三殿:経津主命
第四殿:武甕槌命
祭神は春日神社と同じ四神。
神武天皇が東征される際に勅命を出され、それを奉じて天種子命が国の平定を祈願するため、天児屋根命と妃の比売御神の二神を生駒山中に祀ったことが枚岡神社の始まりなのだそうな。
その後、難波宮に都が置かれた頃に、難波宮の鬼門を守る神社として、778年に春日大社より、武甕槌命と経津主命の二神をお迎えし、現在の場所に至る。
※ちなみに「ナンバ」の地名は四国が発祥だとする説があります。
つまり、こういうことだ。
天児屋根命と妃の比売御神の二神は、
枚岡神社⇒春日大社へ勧請。
武甕槌命と経津主命の二神は、
春日大社⇒枚岡神社へ勧請。
互いに、二神を勧請しあっている。
●河内国二宮『恩智神社』
鎮座地 大阪府八尾市恩智中町
祭神 大御食津彦大神 大御食津姫大神
神使が兎と龍とされるところも気になるが、祭神の『大御食津姫大神』は豊受大神と同一視される、阿波の女神『オオゲツヒメ』のことである。
さすがに春日神社は阿波徳島とは関係ないのかな…とも思っていたが、元春日と呼ばれる神社に祀られているとは。。
この二社はどちらも「元春日」と呼ばれており、
創建も春日大社より古い。
もう一度、春日大社の話に戻ろう。
ここで気になることは、「春日大社」が建つ前の
768年以前には何が在ったのか…ということ。
春日大社の境内摂社でありながら、式内社に比定される『榎本神社』という神社がある。
「境内社なのに式内社」というのがとても重要な神社であることは、前回記事の豊玉姫神社や大麻比古神社で学んだ。
榎本神社の現在の祭神は猿田彦大神とされているが、中世の頃までは、ある「女神」が祀られていたらしい。
祭神は当地の地主神であり、春日大社が春日野に創建される以前から、この地を拠点としていた春日氏によって祀られていた女神であり、
その女神が元々の『春日神』であった。
榎本神社には、二つの土地交換説話がある。
①藤原京が都だった頃、武甕槌命は藤原京の東方の阿倍山に鎮座していた。
春日野一帯の土地を所有する榎本の神が阿倍山の武甕槌命の元を訪ねて「私が住んでいる春日野と、あなたが住んでいる阿倍山を交換してほしい」と相談し、武甕槌命はそれに応じた。
ところが、間もなく平城京への遷都が行われ、阿倍山に移った榎本の神の元には参拝者が少なくなり、榎本の神は貧乏になってしまった。
困った榎本の神は武甕槌命に助けを求め、武甕槌命は自分の社(春日大社)のそばに社を建ててそこに住むように言った。
これが今日の榎本神社であるという。
つまり、榎本の神を武甕槌命が助けたという美談なのだが、少し違和感を感じる。
面白いのは、もうひとつの方。
②武甕槌命は春日野一帯に広大な神地を構えようと一計を案じ、地主である榎本の神に「この土地を地下三尺だけ譲ってほしい」と言った。
榎本の神は耳が遠かったために「地下」という言葉が聞き取れず、「三尺くらいなら」と承諾してしまった。
武甕槌命はすぐさま、榎本の神が所有する広大な土地に囲いをした。
榎本の神が「話が違う」と抗議すると、武甕槌命は「私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかっただけでしょう。
約束通り、境内の樹木は地下三尺より下へは延ばしません。
あなたは住む所がなくては困るでしょうから、私の近くに住んで下さい」と言ったので、榎本の神は春日大社本殿のすぐそばに住むようになった。
これが今日の榎本神社である。
一つ目の話との大きな違いは明らかである。
①は、武甕槌命が榎本の神を助けた話
②は、武甕槌命が榎本の神の土地を奪った話
とにかく、春日大社創建以前より、
榎本の神『春日神』は存在していた。
現在の四神はあとで「春日神」になったに過ぎなかったのである。
そして、個人的に衝撃を受けたのは、
「榎本の神は耳が遠かった」というところだ。
「耳が遠い神」…
そう言えば、徳島の神社にもいた。
そう、数日前に参拝した『大麻比古神社』。
その境内社の『中宮社』は、祭神不詳であるにも関わらず、社殿は伊勢神宮が式年遷宮をした後に使われなくなった撤下古材で建てられているという、明らかに特別な扱いを受ける神社。
『中宮社』では、参拝する前にお賽銭箱の淵を木槌で叩き、御挨拶に来たことを神様に伝えるのだそうな。
小鎚が必要な理由は、この中宮社の祭神は
「耳が遠い神」だからだったはずだ❗
数日前の謎の神様が、ここに繋がってきたことに衝撃を受けた。
元々の春日神と中宮社の謎の祭神には
「耳が遠い」という共通点があったのだ。
そして、元々、榎本神社に祀られていた女神の名前は…
『巨勢姫明神』という。
長くなっちゃったからつづく。
ではまた❗
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