今朝、ベッドでLINEが来た・・・と思ったけど、そのままにしてまた一瞬寝てしまったら、今度は電話が鳴りました。さすがにガバっ!と起きて「もしもし」というと泣き虫の友だちと犬と歩く。に書いた、その泣き虫の友だちでした。「ごめん、寝てた?」「寝てた」「わあ!ごめーーん!」「ええよ、ええよ」時計を見ると午前5時20分。普通なら非常識ってことになるんでしょうが、友だちは、わたしが、それぐらいには犬の散歩に出ることを知っているから、もう起きているだろうと判断して電話してきたのです。さては、いっしょに歩きたいんだなあと思ったけど、約束するのが面倒くさかったので、そのまま電話を切って急いで準備してスーと散歩に出ました。

 

 

階段を勢いよく降りると、なんと、そこに見覚えのある色の服を着た人物が。泣き虫の友だちです。おいおい、ファンの出待ちか。

 

 

そこから二人と一匹で1時間20分ほど歩いて汗だくで帰ってきました。

 

 

こう書くとわたしがすごくいい人みたいですが、実は、そんなことはないのです。わたしもイヤな人はイヤだし、負担に感じるとユーウツになります。単に楽だからできるんです。別に「行くよー」とこちらから誘うこともない。「いっしょに行っていい?」「いいよー」ぐらい。歩きながら話すことも「何食べた?」「ヨーグルト」「だけ?」「そう」「それはやばい。倒れるで」「でも、昨日は食べたから」「昨日は昨日やん」ぐらいなもの。あとはコロナのことや近所にオープンするホームセンターが思ったよりショボそうとか。そういう話。スーが枝を噛んだり、あちこち寄り道するのをじっと二人で眺めて歩く。以上、終了。

 

 

先日、わたしだけでスーの散歩をしていたら、その友だちの友だち(同級生のおかあさんなんでわたしも知っている)とばったり会いました。すると「いつもいっしょに歩いてくれてるねんて?ありがとうなあ」としみじみお礼を言われました。「わたしがお礼言うのも変やけど、ほんまにありがとう」

 

 

つまるところ、泣き虫の友だちはみんなに愛されているのです。

 

 

元野球選手の清原和博さんが自身のYouTube番組で薬物依存の後遺症について正直に語るとともに「もし、身近に薬物依存症の友人がいたら、何も言わずに食事に誘ってあげてください。薬物のことには触れずに楽しい話をして過ごしてください。そういう時間を増やしていくことが孤立して悪化させることを防ぎます」というようなことを語っていました。ことが薬物依存だけにその接し方を貫くのは難しいけれど、でも、きっとそうなんだろうとも思いました。

 

 

わたしたちは何かで苦しんでいるとき、「問題解決」という本質に責任を負おうとする人だけが必要なのではない。むしろ問題を解決しようと必死になる人だけに囲まれると、逃げ道がなくなり、悪化する場合さえある。

 

 

問題は解決しないけど気晴らしをしてくれる人、問題は解決しないけど笑ってそばにいる人、問題は解決しないけど気軽に声をかけてくれる人、問題は解決しないけどあちこち連れ出す人…といろんな人がいろんなふうに、ごちゃごちゃに周りを囲んだほうがいいのではないか。

 

 

心配しないで、無責任にそばにいる。に書いたことの繰り返しになりますが、やっぱりそんなふうに思います。

 

 

問題を解決せねば!と真剣に関われば関わるほど「相手が変わらない」ことに腹が立ち、ついには嫌気がさして「離れていく」ということになりかねませんもんね。わたしは、自分以外の人のことに心の底から親身になれるほど優しい人間ではないので、この程度の「そばにいる」を保っていこうと思います。

 

 

わたしがつらいときも、そんな感じでお願いしたい。