泣き虫の友だちと犬と歩く。に書いた友だちとの散歩は、依然、続いています。一度は回復したものの、帰宅したダンナさんが再び単身赴任先に戻ってから「寂しい病」が再発し、何か話そうとするとジワーっと涙が出る状態。わたしは、「おもしろいけど、大変やな」とつい笑ってしまいます。そしてどうでもいいことを話したり、スーにふたりで振り回されたり…そんな感じで歩く。

 

 

心配していないから続くのかもしれません。「食べた?」「寝れた?」とは聞くけど、「これを食べたら」とか「こうしたら眠れるのでは?」なんてことは言わない。言わないようにしている、というより、そもそもその発想がない。もともと「犬」が主役の散歩なので、私も含めた「人間」は脇役。適当に相槌を打ちながら、犬の様子に注意を払ってひたすら前に進む。かなり無責任な態度で接しているのです。家に帰ると、ほぼ忘れてしまっているし。

 

 

一つだけ気をつけているのは、「それぐらいで何、メソメソしてるの?」的発言をしないこと。そこから続いて出てきやすい「私よりマシやん!」「世の中に、もっとつらい人はいくらでもいるよ!」的発言もしないこと。

 

 

「孤独」の純度・深度を計りにかけて相手の状況を分析し、「わたしのほうが孤独」「そんな悩み、とるにたらない」と断じることだけはしないぞ。状況の深刻さが悩みの深刻さを決めるわけではないし、人にはそれぞれ「弱点」があるからです。心の弱い箇所はそれぞれ違う。それに、そんなこと比較しだしたら、これから先、だれとも、それこそ「無責任」という軽やかな楽しさを味わいながら、弱さをさらけ出して理解しあう語り合いができなくなるから。

 

 

ざっくりと「子持ちの主婦」だったころは、良かれ悪しかれ共通の話題は、「子ども」でした。そこに多少の嫉妬や競争心や葛藤や衝突があったにしても、共通の話題は、共感や連帯感を

生みやすい。それが、この数年で大きく変わったのです。子どもが巣立って夫婦二人になった人、子どもは家にいるが親の介護で年中実家に帰る人、わたしのように夫が倒れ、子どもは巣立って一人暮らしになった人、自分自身の闘病が始まった人、孫が生まれて家庭が賑わっている人、田舎への移住を考えはじめた人…。

 

 

あの人にはこれがあり、これがない。この人にこれはあるが、あれはない。自分の「ある」ものを同じく持ち、自分に「ない」ものは同じく持たない「自然にわかりあえる人」を探すことも決して悪いことではないし素敵なことだけど、「ある」ものも「ない」ものも違う人たちと無責任でいいから、いいかげんでいいから、心底わかりあったりしなくていいから、心配なんかしないで、アドバイスもしないで適当な言葉をかわしつつ、笑いながら生きていきたい。

 

 

だれにもある「寂しさ」は、自分以外に心を開くための窓みたいなものなんじゃなかろうか。遠慮がちに手を振りたい。役になんて立たなくていいから。