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信玄塚(大塚、小塚)

愛知県新城市字東入船6番地1
(設楽原歴史資料館)
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天正3年(1575)5月21日、南北に流れる小さな連吾川をはさみ西に織田・徳川連合軍と東に武田軍とが戦闘。
激烈な戦いが繰り広げられ、この戦いで武田軍の死者は1万余、連合軍は6千余と言われます。

激戦地であった連吾川の両岸には、累々とした屍体の山でした。
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里人たちは、まず名の知れた武将をそれぞれの地に埋葬し、残った多くの屍体は丘陵の1個所に運び大きな穴を2つ掘り、そこに埋めて塚を築き、その上に印の松を植え弔った。

多くの将士を埋めた2つの塚は、大塚様、小塚様とあがめて懇ろに弔う。
これが「信玄塚」と言われる。
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また一説には大塚は武田方、小塚は織田・徳川方と伝わるようです。

独り言
信玄塚は設楽原歴史資料館に隣接している。
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信玄塚へ一歩足を踏み入れるとドンヨリとした重々しい雰囲気を感ずるのは私だけだろうか…

昼間の、しかも超晴天日で良かったぁ

野田城址

愛知県新城市豊島本城
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野田城は菅沼定則が永正2年(15051)に築城し今川義元に属した。
1560年 義元が桶狭間の合戦で織田信長に討ち取られると菅沼定盈は徳川家康の支配下に入る。
1572年 武田信玄は2万の大軍を率い野田城を取り囲み籠城戦となった。
信玄は城内の井戸に穴を開け水を抜くという戦術を敢行し攻防1ヶ月の末に落城。
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籠城中の野田城では村松芳休という笛の名手が毎夜笛を吹き皆その笛の音に聞き惚れ武田信玄が軍を離れて城に近づいた時 鳥居三左衛門に鉄砲で撃たれ、その傷がもとで亡くなったという伝説がある。
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現在は主郭跡と二の曲輪跡があり空堀や土橋が遺る。

独り言
城郭には信玄が水抜きを行った井戸が遺るなど中世城郭の面影を今もとどめている。
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また近くの法性寺には城門が移築保存されている。

豊川城址

愛知県豊川市豊川

鎌倉時代、大江入道定巌が豊川の地頭となり、豊川村古屋敷に居住したことに始まる。
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1602年、刈谷藩主水野勝成の弟水野佐渡守忠直、水野八十郎が宝飯郡内で3000石を領し陣屋を構えた。
現在は光明寺に変わり水野八十郎の墓がある。
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光明寺横に豊川城跡の石碑が建っており遺構はない。