やなせたかしさんと文化放送 | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

またまたアンパンマンネタ。

毎日新聞の記事で、

やなせたかしさんが文化放送で台本を書いていたことを知った。

 

やなせさんが生み出したアンパンマンは、あんパンでできた顔を食べさせるヒーローだが、今の姿になるまでに、さまざまなアイデアがあった。

生前やなせさんが語っていた「最古」のアンパンマンに迫る資料が、去年、見つかった。

やなせさんは1953年に漫画家として独立したが、代表作と呼べるようなものは、なかなか生み出せなかった。ラジオの台本や舞台の構成などの仕事もこなして、生計を立てていた。

60年代、やなせさんは文化放送でラジオコントの台本を書いていた。「この時に一回だけアンパンマンを登場させたのですが、どういう具合のものだったか、ぼくもほとんど覚えていません」(「わたしが正義について語るなら」、ポプラ社)最も古いアンパンマンがラジオコントに登場したらしいのだ。

具体的な資料は見つからず、謎に包まれていたが、去年春、やなせさんが執筆したラジオ番組6作品の台本が文化放送の倉庫で見つかったのだ。

発見された台本のうち「トランジスタコメディ『めい犬ドン』」は、61年から63年まで毎日5分間放送されていたもの。

犬のドンとパパ、ママ、坊やの家族の毎日を描いた連続コントドラマだ。

その中に、アンコ・キッドというキャラクターが出てくる。坊やがドンに披露する作り話の中に、西部劇のキャラクターとして登場する。二丁拳銃を抜いて悪役をやっつけたり、馬に乗ったりして活躍する。アンコ・キッドは、現在のアンパンマンにつながる可能性が高い。

 

やなせさんが初めて「描いた」アンパンマンという名前のキャラクターは69年に登場する。その姿は太ったおじさんだった。

月刊誌「PHP」に、やなせさんが1年間、短編の物語を連載したうちの一編として登場した。自分の顔を食べさせるのではなく、あんパンを配るヒーローだった。

 

今のキャラクターに直接つながるアンパンマンが登場したのは同じ1973年。フレーベル館から出版された月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の10月号だった。

「このときはアンパンじたいが空を飛ぶほうが面白いと思って、困っている人に自分の顔を食べさせるようなストーリーにした」(「やなせたかし みんなの夢まもるため」、NHK出版)

あんぱんまんは、ぼろぼろのマントで登場し、自分を食べさせることで、飢える人を救う。やなせさんはあとがきで「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです」と語りかけた。この時、やなせさんは54歳になっていた。

批評家の評判は散々だった。幼稚園の先生からは「残酷だ」と苦情が来たと、やなせさんは回想している。

しかし、しばらくすると子どもが愛読していると、声をかけられるようになったという。

やなせさんが69歳のとき、日本テレビ系でアニメ「それいけ!アンパンマン」の放送がスタートし、人気は不動のものになっていく。

 

「本当の正義」とは何なのかを子どもたちに伝えようとしたアンパンマンの創作の背景の一つには、やなせさん自身の戦争体験がある。やなせさんは21歳の時召集され、中国大陸に行った。戦闘も恐ろしかったが、最も辛かったのは飢え。食料が乏しく、野草やタンポポまで食べたという。

当時のことについて、やなせさんは「ボクたち日本のやっている戦争は正義の戦いだと思っていた。なんにも疑うことはなかった」と毎日新聞の取材に答えている(93年3月16日付夕刊、東京本社発行)。しかし、そんな状況は敗戦を境に一変した。やなせさんはこう記している。

「正義は或る日突然逆転する。逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点になる」(「アンパンマンの遺書」、岩波書店)

         (毎日新聞夕刊 2025.3.31参考)

 

1973年、フレーベル館から出版された月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一場面。

1969年、PHPに掲載されたアンパンマン。

文化放送で発見された台本。