敬愛する大沢悠里さんと会食の機会を得た。
伝説のラジオパーソナリティーと差し向いで語る。
ドキドキワクワク、至福のひとときだった。夢心地だった。
TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』は、36年続いた長寿番組。朝8時30分から午後1時までの4時間半の生放送。
大沢さんに飾らないトークで、ゆったり穏やかな気持ちにしてもらえたリスナーも多い。
番組には、いくつかの決まり文句があった。その言葉を毎日聴くことが安心感にも繋がった。
テーマ曲が流れ、番組冒頭で、「森本毅郎さん、遠藤泰子さんの『スタンバイ』が終わりまして、8時半を過ぎました」。
このあと、大沢さんと各曜日パートナーによるあいさつ、その日の日付と当日誕生日を迎えた人への祝辞、放送回数を言う。
「さあ、今日も始まりました。午後1時まで、4時間半の生放送。どうぞお仕事をなさりながら、病気療養中の方も、どうぞお付き合いくださいね」。1994年、脳梗塞の発症によって3週間の入院加療を余儀なくされたことから、復帰後から「病気療養中の方もお付き合い下さい」との一言が加わった。
時報の直前に大沢さんが「まもなく時報になります。ちょっとお手元の時計、合っているかどうかお確かめください」
エンディングでは、大沢さんがその日の番組スタッフ全員の名前を読み上げていた。これは、スタッフたちに「ミスしてはならない」という意識を高めるためと「みんな頑張れよ。感謝しているから」。「(ラジオを聴いている)スタッフの家族、親戚も喜ぶだろう」という気持ちを込めて。
大沢悠里さんは、1941年生まれの84歳。
ボクより一回り年上の巳年。
4歳の頃まで浅草で暮らしていたが、ラジオ番組をよく聴いていた。その影響でラジオから流れる「大本営発表、東部軍管区情報」を真似して実家の近所を触れ回っていたことから、「大本営」とあだ名がつけられたそうだ。そのころからアナウンサーになりたかった。
小学生時代は、筆箱をマイクに見立てながら、『話の泉』『三つの歌』『民謡をたずねて』に出演する高橋圭三さんや宮田輝さんなど名アナウンサーの声真似を同級生に披露していたという。
獨協高校への在学中には、放送部で朗読劇などの制作も手掛けていた。
獨協高校から早稲田大学へ進学した目的は、学内の放送研究会で活動することにあった。放送研究会では、露木茂さんや鈴木史朗さんといった先輩の下で、ジャズバンドやハワイアンバンドが演奏するイベントの司会を数多く経験した。ギャランティーだけで、早稲田大学の学費を賄えたとか。
1964年、TBSに入社後は、一貫してラジオ畑を歩いてきた。
この日は、大沢さん御用達のふく料理屋さんで、ふくに舌鼓を打ちながらの語り合い。アフターの喫茶を入れたら4時間半。
番組と同じだけの時間、大沢さんの「語り」に耳を傾けていた。
嬉し気に楽し気に語らう大沢さんを見ているだけで嬉しくなった。ぼくが時々口を挟むと「そうなんだよ」「それなんだよ」と絶妙の合いの手を入れてくださり。これまた嬉しくなった。
大沢さんの語り口は不思議だ。
悪口も悪口にならない。辛口も辛口にならない。
見えないオブラートに包まれて心地良くなる。
きょうの会食がお開きになってほどなく、大沢さんからメールが来た。
「きょうは本当に楽しかった。嬉しかった。村上くん大好きになりました」
極上の言葉をいただき、舞い上がったのは、言うまでもない。
ラジオ100年の今年、11月7日、ラジオ界のレジェンドに大人の寺子屋にお出ましいただき、ラジオ愛について語り合うのが、今から楽しみでならない。
大沢さんは、最初から「ひれ酒」
懐かしい「てっさ」。山口時代を思い出す。
ふくの唐揚げも絶品。
てっちりもサイコー
同席した山尾百合子さんは、人の応援をする仕事をしてきた。