立川志らくさんの「談志論」も読んでみた。
志らくさんの「談志愛」も半端ないと感じる。
どんなに暴論を吐かれようが、そこに師匠愛を感じるから、
弟子は、とことんついていくのだろう。
生前、談志師匠は言っていた。
「志の輔はオレのメディアの部分を見事にやっている。
談春は美学をやっている。
志らくは、イリュージョンをやっている。
3人揃うと談志になる」
言い得て妙だ。
志らくさんの考えはこうだ。
志の輔さんは、師匠を反面教師にしてソフトな談志になろうとしている。談春さんは、芸の部分だけ談志になろうとしてもがいている。
そして自分は、談志そのものになろうとして、世間から笑われていると自嘲気味に語る。
志らくさんは、さらに分析する。
「談志の芸には、過去の名人の集大成に現代が見え隠れする。
どの噺にも己の苦悩が滲み出ている」
これまた言い得て妙だ。
談志こそが、落語中興の祖と言う人もいれば、ただの異端児だと毛嫌いする人もいる。好き嫌いの分かれる落語家であることは間違いない。
志らくさん自身も、かつては、大嫌いだった。
議員になったり、テレビで生意気なことばっかり言って、こんな人がまともな落語をやれるはずがないと思っていた。
表面的なところしか見てなかったのだろう。
今、志らくさんは、談志愛を包み隠さない。
「談志は、私の身体の中にいる。
伝統芸能の世界において、師弟の別れはない。肉体は消えても、その精神や芸は弟子たちの身体に宿り、次代へと伝わっていく」
「芸人ならば、非常識に生きてみろ」
師匠の声が聞こえてきそうだ。