このたびも学びいっぱい。
「中庸は徳の至れるものなり」
やりすぎもよくない。遠慮しすぎもよくない。過不足なくがいい。
「中庸」の『中』とは、偏らない、しかし、決して大小や上下の中間を取りさえすればよいという意味ではない。
よく「50対50の真ん中」と混同される。
中間、平均値、足して2で割るというものではない。
常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚でも理解できるものである。
心の在り方が中庸ではないと中立にはなれない。
高橋源一郎さんによると、「中庸とは、歴史の真ん中」だという。
時代が移り変わっても、変わることのない本質的な正義を中庸と呼ぶ。「温故知新」なのだ。答えは過去にある。
「仁」についても、弟子の問いに答えて、孔子はあの手この手で解説している。子貢の問いに対して、大工が道具を手入れする例えをひもとく。自分を磨いてくれる先生や同志を見つけて切磋琢磨することが、仁を身につけることに繋がると説く。
定子さんの祖父・安岡正篤師さんは「六中観」という自己修養の教えを伝えた。
忙中閑あり(どんなに忙しい中でも閑は作れるし、そういう余裕を持たなければならない)。
苦中楽あり(どんな苦しみの中にも楽は見つけられる)。
死中活あり(もう駄目だという状況の中にも必ず活路はある)。
壷中天あり(どんな境涯の中でも自分独自の別天地を持つ)。
意中人あり(尊敬する人、相許す人を持つ)。
腹中書あり(頭の知識ではなく人間の土台をつくる書物を腹に持つ)。
まさに腹中書ありは、温故知新だ。
人はぶれるが、古典はぶれない。古典に書かれているものの中に
現代に通じるヒントがある。優れた経営者は古典を熟読している。