ひまわりは枯れてこそ実を結ぶ | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

日本画家の堀文子さん。

画壇に属さず、自然を師と仰ぎ、自由に、自己流で描き続けた。

「歳を取ったから偉いなんて、冗談じゃない。去年より今年のほうが偉いなんて、そんな馬鹿なことがありますか」

つねに「いま」生きてきた人だ。

 

1918(大正7)年東京麹町生まれ。

幼ない頃から自然界の営みに興味を持ち、科学者を夢みる。

しかし、当時の女性に学者の道は厳しく、芸術表現の道に進む。
18歳で、女子美術専門学校(現・女子美術大学)で日本画を学ぶ。

在学中に新美術人協会第2回展に初入選を果たした。

雑誌や絵本の挿絵も手がけていたが、
28歳で、外交官・箕輪三郎と結婚。

34歳のとき、上村松園賞を受賞。
42歳で夫と死別。悲しみの中、エジプト・ヨーロッパ・アメリカなどを旅し、新たな題材で画家として再出発をした。

49歳で、大磯に居を構える。
54歳で手がけた、絵本『くるみ割り人形』が、イタリア・ボローニャの第9回国際絵本原画展でグラフィック賞を受賞。
69歳、バブル期真っ只中の日本から逃れようと、イタリア・アレッツォ市にアトリエを構え、5年余り豊かな自然と向き合い、取材と制作に没頭した。
77歳から、アマゾン、マヤ遺跡、インカ文明を訪ね、81歳でヒマラヤを取材。代表作、『幻の花 ブルーポピー』を発表。
83歳のときに大病で倒れるも奇跡的に回復し、顕微鏡で見る微生物の美しさと生命の根源に魅かれ「極微の宇宙」をテーマにした作品を発表。常に新境地を生み出し、「私には一貫した画風はない」という言葉通り、見事に画風は変化する。
晩年のテーマは、動植物のみならず古代文化の意匠など多岐に及ぶ。それらは「自然・歴史」への畏敬と命あるものに注がれる温かい眼差しを通して、堀文子独自の表現世界へと生まれ変わる。

一つの場所に安住せず、絶えず新しい感動を求めて旅をし、居を変える「一所不住」を自身の信条としていた。

庭の片隅に咲く雑草達を「名もなきもの」というテーマにし、主役にはならないが逞しく生きる小さな生命を讃え、その姿を表舞台に残そうと制作を続けた。

2019年2月5日逝去。享年100。

 

堀さんは74歳のとき、「黄色くない枯れたひまわり」を描いた。

頭に種をぎっしり実らせ、大地を見つめて直立するその姿から、死は決してみじめな終末ではなく、「生涯の華々しい収穫のときだ」ということを感じる。

「いのち」を正面から見つめ続けてきた堀さんの言葉は、現代に生きる私たちに智恵と勇気を与えてくれる。

 

●慣れない。群れない。頼らない。

●人がいけないということは、まず、やってみよう。
●在るものはなくなる。

●死は同居人のようなもの。死は、外から来るものでなく、内にいるごく自然のもの。死と親しみ、死と道連れになっている。

●起承転結の「結」は恰好をつけるだけのもの。私は「結」なしで、この世からかき消えていく。

●死は終わりではなく、次の生命の始まり。

●自分が敵。日々、自分との果たし合いをしている。

●宙づりになってもしたいことはしろ。

●驚き続けるために、私はいつも空っぽでなければならない。

●安全な道には驚きがない。

●私には画風がない。今日という私を描いているのだから、死ぬ前の日まで驚いていなければならない。

●岐路に立ったら、困難な道を選ぶ。

●死ぬと、私の命は何かになる。出来れば木になりたい。この世の生命体でいちばん厳粛で立派なのは、木と植物だと思うから。

●情報に寄りかからず、国になんか頼らず、自ら頭を働かせ、自分の手や足で生きる力を取り戻さなけれなならない。

●描くものに対して、感動とか興奮という生易しいものではなく、逆上に近いような感情を持っていないと、人の魂など打たない。

●息の絶えるまで感動していたい

●戦争は人災。戦争は他殺。