花緑さんが約束の時間になっても現れない。
電話しても出ない。
気にしていたら、メールが来た。
「本郷三丁目の交差点付近で、自分の車と自転車が軽い接触をした。
怪我も破損もないが、相手が激高して警察を呼んだ。
日本人に見えるが、英語しかしゃべらない」。
いささか困った顔の花緑さんが想像出来た。
警察に行ったら、相手は、突然日本語を話し出し、事件にはしたくない。早く帰りたいという。結局、スピード示談。
狐につままれたような苦笑いで花緑さんが麟祥院に現れたのは、
本番15分前。急いで着替え、時間通りに始められた。
もちろん、この話を「マクラ」にしない手はない。
微に入り細を穿ち、面白おかしく語り、「村上さんが電話してきたので、気をとられ自転車に気づくのが遅れた」と、ボクに罪をなすりつけるオチ(笑)。
落語は、五代目小さんの十八番『猫の災難』。
酒好きな熊五郎のほとんど一人語り。
隣の猫が病気見舞いもらった鯛の残りをもらい、
これを肴に酒を飲みたいと思っているところへ兄貴分が来る。
近くの酒屋は借りがあるので、二町先まで行って、五合買ってきてもらうことにした。
さあ困ったのは熊五郎。いまさら猫のお余りとは言いにくい。
しかたがないので、兄貴分が酒を抱えて帰ると、
「おろした身を隣の猫がくわえていった」とごまかす。
兄貴分、不承不承代わりの鯛を探しに行った。
熊五郎は、ほっと安心して、酒を見るともうたまらない。
一杯だけのつもりが飲み干してしまう。
鯛をようやく見つけて帰った兄貴分。
酒が一滴もないのを知って仰天する。
熊五郎は猫のしわざだと言っても今度はダメ…。
五代目小さんは、
「試し酒」「禁酒番屋」「猫の災難」などで観客をうならせた。
さもうまそうに杯を傾けたあと「チッ!」と舌打ちする仕草、畳にこぼした酒をチューチュー吸う場面、相棒が帰ってきてからのべろべろの酔態…、愛すべきノンベエの姿を見事に活写していた。
師匠の十八番をお願いと気楽に依頼したのだが、「師匠の十八番はボクの十八番とは限らないんです」と花緑さんは言う。
ある意味無理難題を、快く受けてくれたのだ。
小さん師匠の『猫の災難』とは、格別の花緑さんの『猫の災難』になっていたと思う。ぜひ十八番にしてほしい。それが祖父の芸を受け継ぐことにもなるから。
五代目小さんが亡くなって20年になる。
人間国宝の孫という大きな看板を背負うプレッシャー、祖父の優しさを物語るエピソード、祖父の骨上げの夜、祖父のベッドで大泣きしたこと…会場の観客も泣いたり笑ったり、共感の一体感に包まれた。
机上には、小さん師匠のにこやかな顔の写真が置かれ、終始、孫の話に耳を傾けている気配が感じられた。
その気配のためか、ボクは最後に自分でも予期せぬことばを口にした。「おじいちゃんの写真に語りかけてください」と。
「まるでNHKの番組の締めみたいですね」とはぐらかしながらも、
祖父の遺影に向かって、孫は真摯に語りかけた。
「まだまだできの悪い孫ですけれども、自分を信じて、自信を持って、
もう二度と死ぬとか言わないので、たまに、あの世から覗いてみてください。 で、あの世に行ったときに、隠れたり逃げたりしないで堂々と再会できるように精進していきます」。
(つづく)