NHK京都文化センターの講座「ことばの取扱い説明書」。
最近、「ちむどんどん(心がどきどき)」したことを話してもらった。
●旅先の隠岐の船頭さんの案内に、ちむどんどん。
ご本人も楽しんでいる様子が伝わり。
●米寿の母と大原三千院へ。華やいだ様子の母にちむどんどん。
●6人目の孫の誕生に立ち会え、ちむどんどん。
●ゴーイングマイウェイな次男の中学入学式。
ほっとして、ちむどんどん。
●奈良の聖林寺の十一面観音に出会え、ちむどんどん。
それぞれの「ちむどんどん」を聞いているだけで、「ちむどんどん」してくる。確かに、話があっちに飛び、こっちに飛びまとまらない「話し方」もある。「話し方教室」に行くと指摘されてしまうようなことも、ここでは気にしない。「本気の想い」があれば「伝えたい想い」があれば、いいのだ。
最近、あるテレビ番組の女性司会者が交替した。同じコメントを言っているのに、腑に落ちない。「本気の想い」「伝えたい想い」が希薄だからだろう。
俯瞰で聴くということについても考えた。
自分、自分という思いを捨てて、相手を意識して聴くには、ミクロからマクロに視点を変える必要がある。1人でも別の感覚を持った2人で聴いている気持ちが必要だ。単眼思考でなく複眼思考。
話し手と聴き手が心を一つにする。自分の思いを一方的に伝えない。
相手の思いを意識する。
それには、俯瞰してものを見る感覚が大事だ。
俯瞰を意識するには、世阿弥が伝えた「離見の見」が参考になる。
人間は自分の後ろ姿を見ることは出来ない。鏡があっても難しい。
同じように自分自身を客観的に見ることは、なおさら難しい。
世阿弥は『花鏡』の中で、
演者は3つの視点を意識することが重要だと説いた。
1つ目が「我見(がけん)」。役者自身の視点。
2つ目が「離見(りけん)」。観客が客席)から舞台を見る視点。
3つ目が「離見の見(りけんのけん)」。役者が、観客の立場になって自分を見ること。客観的に俯瞰して全体を見る力だ。
世阿弥は、観客から演者がどう見られているかを意識せよと説いている。その視点を頭に置くのと置かないのでは、観客への伝わり方は全く違ってくる。
役者は演じながら、同時に観客にはなれない。だが、観客と同じ気持ちになろうと努力することはできる。この努力が実を結ぶことを「見所同心」と世阿弥は表現した。
場の空気感をどうしたら観客と共有できるか、能面をつけていて観客の姿がはっきり見えない中でも、世阿弥は舞台の上で舞いながら考えたのだろう。
自分が話していることを相手が理解しているか、真意が伝わっているかと想像しながら話す。だが、これで終わりではないのだ。我見と離見を客観的に俯瞰して見る「離見の見」が必要なのだ。
こういう話をしたら、「自分がドローンになればいいんですね」
「外野席から野球を見ている感覚ですね」という人がいた。
言い得て妙だ。