中将姫に会いに行く | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

奈良県葛城市にある當麻寺。

創建は、推古天皇20年(612)、聖徳太子の弟、麻呂古親王が河内に「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立したのがはじまりといわれる。

その後、現在地に移り、名を當麻寺とした。

金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺。

白鳳時代の仏さまは、笑みを浮かべて、穏やかで優しいお顔だ。

 

本尊は、「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」。曼荼羅絵そのものが本尊になっているのは、極めて珍しい。

この曼荼羅絵は、中将姫が写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を、蓮糸を五色に染め織り上げたと伝わる壮大なものだ。

中将姫は、天平19年(747)藤原豊成の娘として生まれた。

5才の時に母を亡くし、豊成が後妻を迎えると、その継母に妬まれ、命さえ狙われるようになる。しかし、中将姫は、継母を恨むことなく、14才の時、雲雀山へ逃れ、読経三昧の日々を送った。
やがて都に戻った姫は、『称讃浄土経』の写経をはじめた。毎日欠くことなく筆を採り、経典を書き写し続け、1000巻の写経を成し遂げた16才のある日、西の空に神々しい光景を見た。

夕陽の中に阿弥陀仏が浮かび上がり、極楽浄土の光景が広がった。

その光景に心を奪われた姫は、夕陽の中に見た仏さまに仕えたいという一念で都を離れる。そして、着いたのが、夕陽を象徴する二上山の麓にある當麻寺だったのだ。

当時の當麻寺は男僧の修行道場であり、女人禁制だったが、当時の當麻寺別当(住職)の計らいで、女人禁制を解いて姫は迎え入れられた。中将姫は尼僧となり、曼荼羅絵に取り掛かる。

集めた蓮の茎から、糸を取り出し、井戸で清めると、不思議にも五色に染め上がった。そして、半日で、五色の巨大な織物が完成した。

これが国宝「綴織當麻曼荼羅」。
織物の中央には阿弥陀仏。その左右に観音さまと勢至さま。周囲には、『観無量寿経』に説かれているお釈迦の教えも描かれている。

29才の春、姫は、その身のまま極楽浄土へ旅立たれたが、曼荼羅の教えはその後も生き続け、人々のよりどころなっている。

 

高田将代さんの「将」の字は、中将姫からもらい受けた。

将代さんは、當麻寺の塔頭の一つ「護念院」の長女として生まれた。いまは、弟が住職になっている。

中将姫ゆかりの名を持つ将代さんにご案内いただくというスペシャル。

クラブハウスからのご縁に感謝だ。

 

(中将姫の像の前で)

(中将姫像)

(中将姫の命日5月14日に行われる練供養で使われる面)

(仁王門)

(いまも広い境内)

(本堂 この中に本尊の曼荼羅絵がある)