言葉の破壊を始めた政治家たち | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

嬉しいことばの種まきを始めて、ほぼ10年。

いま最も種まきをしたいのは、政治家の皆さん。

自分の言葉で語らないどころか、言葉に想いが込められいないから

伝わってこない。

かつて大平正芳という総理大臣がいた。

「あー」「うー」「えー」を連発する人だった。

だが、「あー」「うー」「えー」を取り除けば、理路整然とした内容だったという。「あー」「うー」「えー」といいながら、「伝わることば選び」をしていたのかもしれない。

 

自民党総裁選挙がたけなわ。

4人の候補者のことばを聞かない日はない。

4人とも、一見「耳心地」の良いことばを連ねているが、

その中から、真実や誠実を聞き分けねばならない。

 

政治家のことばについて、哲学者の國分功一郎さんの発言に大いに共感した。(朝日新聞9月17日付朝刊から)以下抜粋。

 

正直な話、菅首相の下の名前をぱっと思い出すことができない。それくらい印象が薄かった。彼が自分の言葉で語っているのを一度も聞いたことがないためだと思う。

総裁選不出馬には驚きも感慨もなかった。

「説明責任は果たさない」という一貫した姿勢の背景にあるのは「言葉の破壊」ではないか。

最近なら「自宅療養」。これは診断や治療を受けた人が病院を出て自宅で休むという意味のはずだ。ところが、入院できない人の放置を言い換える言葉になってしまった。

自粛とは自ら進んで慎むこと。ならばそれを「要請する」などと言えないはずだが、「自粛要請」はメディアでも繰り返し使われた。現場への責任の押しつけをごまかす表現だった。

我々と世界をつなぎとめているのは言葉である。だから言葉が実際に起こっていることを名指さないようになると、我々は世界とのつながりを失ってしまう。ところが政治家がむしろ、積極的につながりを断っている。

為政者が言葉を駆使して、一人ひとり異なる意見をもつ有権者を説得する営みが政治の中心にある。その意味で、2012年以降続いてきたのは「政治の消滅」ではないか。言葉への徹底した軽視があった。

菅首相が国民に向けて自分の言葉で語りかけることはなかった。そっぽを向かれても当然だろう。

かつて政治学者の丸山真男は、責任の所在の曖昧な体制によって太平洋戦争が引き起こされたことを批判して、「無責任の体系」と言ったが、国民は再びそれを目にした。

責任はたんに負わせたり、負わされたりするものではない。自ら引き受けるものでもある。ところが今は責任と言えば「誰のせいか」という話にしかならない。自分の言葉で語ることが応答としての責任の大前提である。

いま我々は、「これだけは譲れない」と言える価値を共有できずにいる。だからこそ政治家は、自らの信じる価値を自らの言葉で語り、国民が政治について判断を下すための助力をする者でなければならない。