会うべき人に会える幸せ | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

広島で、藤原紹生さんに、素晴らしい割烹にご案内いただいた。

平野寿将(ひさま)さんが包丁を握る名店「馳走 啐啄一十(そったくいと)」。

店名には、平野さんの想いが込められている。

「馳走」も「啐啄」も、禅の言葉から来ている。

馳走は、主人が客人のために方々を駆け巡り食材を集める、おもてなしの心。啐啄は「啐啄同時」として使われる、雛鳥が誕生する時に、親鳥が卵の殻を外から嘴でつつく、雛鳥は中から嘴でつつく、それは早すぎても遅すぎてもいけない、それになぞらえて、師匠が弟子に悟りを開く時期も、早すぎても遅すぎてもいけない、師匠と弟子の阿吽の呼吸を言ったものだ。

つまり、店の主人が客人を最高の食材と料理で迎える、おもてなしの心で、啐啄、ここでは最高の料理をお出ししたい、店主の心と、客の心が、阿吽の呼吸のごとく一つになり、それが一から十まで全部、という意味だという。

選び抜かれた食材と、そのうま味を引き出す「出汁」が、一品一品、客を唸らせる。

和食料理界の風雲児、異端児と注目を浴びてきた平野さんだが、

極めて丁寧な仕事ぶり。きめ細かな気遣いに満ちた品ぞろえ。

料理の説明も、低い自信に満ちた声で引き込まれる。

口の中に、日本の食文化の粋が広がる。

 

平野さんは、昆布のうま味を引き出すにのに最適な広島の軟水の湧水に魅せられて、7年前、広島で開業した。

それまでは、紆余曲折人生。

1960年、愛媛県松山市生まれ。

獣医の父と華道師範の母の間に生まれたが、

中学・高校時代は、不良の仲間にいた。

一念発起して、高松の調理学校を出て、京都の料亭で修業後、25歳の時に地元の松山で懐石料理「食楽平野」を開店。

その後、コンビニ弁当の仕出し会社の経営に乗り出し、社員100人を超えるまでに成長させたが、事業に失敗して五億円の債務を抱えて倒産。自分だけでなく両親にも借金の肩代わりをさせる形になり、身ひとつ一文無しで上京した。

1990に上京後、出張料理人となり、鎌倉で一日一組の店「平野」を開店。その客として知り合ったプロボクサー、鬼塚勝也さんの専属料理人を経て、1998年、池袋で「屋台村」をプロデュースしてブームとなり大成功を収めた。その後、テレビ番組の料理監修やプロデュースをするうち、自らもテレビ出演をするようになった。

そういう全ての経験が、料理に反映されているように思う。

一分の隙もない、気配りが感じられる。

食材の声をよく聴き、客の舌をよく感じ、何より楽しみながら、

板の前にいる。

一流の芸を五感で堪能した。

 

6年寝かせた蔵囲利尻昆布といりこ・あご、

羅臼昆布には鮪の削り節、

白口浜真昆布と3年物の鰹節。

グルタミン酸の抽出が促進され、

旨みが高まる広島の湧き水で引いた「だし」こそが全ての料理の要。

(熟成が行き届いた刺身 わさびも微妙に種類が違う)

(白子、白エビ、カラスミの三種の神器皿)

(出汁の海で泳ぐ牛肉)