昭和50年12月4日。
NHK内定から遡ることおよそ1年前。
アナウンサーという仕事への道を歩むことが運命づけられた日だ。
1浪していなければ、明治学院大学に入っていなけれれば、
学生新聞の記事に携わっていなけれれば、
この日、特派記者として、中西龍さんに会っていなければ、
今のボクはいない。
昭和51年の新春特別企画として、2ページに渡る記事。
ボクの稚拙なインタビューに、1時間半も付き合っていただいた。
だが、ここで聞いた「ことば」が、ボクを動かした。
アナウンサーの仕事は「人の喜びを倍に、哀しみを半分に」。
そんな仕事をしてみたいと思い立ち、
アナウンサーという生業を選択したのだった。
(明治学院学生新聞 昭和51年新年号)
その後、中西龍さんは、昭和59年、定年前にNHKを辞めた。
その年に出た『人を恋い 唄に酔う』を贈呈していただいた。
添え書きに「NHKを辞めたこと、なんの未練もありません」と述べてあった。話芸の職人として、自分に合った仕事だけをしたいと辞められたようだった。
そのあとがきに、中西さんの矜持が語られている。
「よく話すことは、よく書けることが前提であり、絶対そうあらねばならないと確信している」
「花には争いも諍いもない。風が吹けば風の強さのままに揺れ、雨が降ればみな一様に濡れる。そしていつか散る。人間もかくありたい。
黙って咲いてそっと散るは、私の憧れである。そのためにこそ怠けてはいられない」
選ぶことば一つ一つに心血を注ぎ、音声化するとき「思いやり」という息吹をかけ、聴いている人に「あなたの声は私の生きる星」とまで言わしめた。
その境地は遥か遠い。