黒井城址に立つ | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

小学生の夏休み、丹波に帰省すると、必ず城山に登っていた。

だが、大人になってからは、足が遠のいていた。

そのうち、そのうちが、何回となく続いた。

昨日、あまりの好天に誘われて、得意の「思い立ったが吉日」で、

城山登山を決行した。50数年ぶりのことだ。

 

大河ドラマも手伝ってか、登山道ですれ違う人は結構いた。

小学生の頃は、息も切らさず登っていたが、66歳の身体には堪える。

杖をつきながら、ゆっくりゆっくり登り、50分くらいで山頂にたどり着いた。山頂からの眺望は素晴らしく、達成感もあり、いい気持ちになれた。城山には、黒井城の遺構が残り、兵の夢の跡を彷彿とさせる。

 

城山は標高356メートル。

黒井城が、山頂に築城されたのは、建武年間とされている。

戦国時代の天文23(1554)年、新たに城主となった赤井悪右衛門直正は、その勢力を丹波一円に広げた。黒井城の大改修も行い、本丸、二の丸、三の丸も備えた堅固な城を築く。赤井直正は、連戦連勝の猛将で、知略で知られる明智光秀も手を焼いた。

光秀は何度となく攻撃を仕掛けるが、その都度退けられている。直正は、「丹波の赤鬼」と恐れられた。

だが、直正が天正6(1578)年、病没すると、一気に赤井家の求心力が弱まり、天正7(1579)年8月9日、ついに落城した。

その後、400年、風雪に耐え、いまも戦国時代の山城の様子を残し、

国の史跡にも指定されている。

 

丹波市春日町黒井生まれの父は、郷土をこよなく愛した。

郷土の歴史にも詳しく、「赤井悪右衛門直正」の名は、ボクが子どもの頃、何度も何度も聞かされた。「悪右衛門」という響きが耳にこびりついていた。

父は、城山にも、親友とよく登っていた。13回忌の今年、父のことを思いながら、久々の登山となった。

父は、大河ドラマ「春日局」の時も、黒井が全国に紹介されるよう奔走していたが、今年の大河で明智光秀が描かれることを喜んでいることだろう。父の親友の郷土史家、村上完ニさんの息子の正樹さんが、黒井のために奔走している。

 

(親友の村上完ニさんと登山した父・久夫≪左側≫)

(城山麓にある興禅寺は、城郭のような佇まい。

光秀の家老・斎藤利三の館だったと言われる)