論語知らずと言いながら、回を重ねて33回にもなると、
取り上げた論語も120を超えた。
そうなると、耳慣れず難しいものも出てくる。
論語と言っても、教訓めいたものだけではない。
「ボクみたいな優秀な人材、どうして採用してくれないのかな~」と、
なかなか任官出来ない己の境遇を嘆くものもある。
孔子といえど、完璧な人間ではなかったのだ。
師の死後、弟子たちが、「先生こんなこと言ってたなぁ」と思い起こしながら、まとめたのが論語といえる。
この日(12日)には、孔子が先輩から批判されているものを教わった。
微生畝(びせいほ)、孔子に謂いて曰わく、
丘、何為(なんす)れぞ是栖栖(
たるものぞ。
乃ち(すなわち)佞(ねい)を為すこと無からん。孔子対えて(こたえて)曰く、敢て佞を為すに非ざるなり。
固を疾(にく)めばなり。
孔子の先輩で山に隠れて自給自足の一人暮らしをしている微生畝という人が、「お前はどうしてそんなにあくせくと働かねばならんのか?世間の目を気にせず気楽に暮らしたらいいではないか」といった。
これに対して孔子は、「私は別に世間受けを狙ってあくせくしている訳ではありません。自分さえ良ければと殻に閉じこもって独り善がりになるのがいやなんです」とおっしゃった。
的を得たことを言われ、ハッとする孔子の心中が忍ばれる。
だが、殻に閉じこもり独善的な先輩を揶揄して言い返している。
なんだか互いに人間らしくていい。
人は自分一人で生きている存在ではない。
様々な縁によりて生かされている存在だ。
血縁・地縁・人縁・時縁、どれ一つとして粗末にできない。
縁を大切にする者は縁によりて活かされる。
孔子は先輩の批判を逆手にとって、
そう伝えたかったのではなかろうか。
偶然の出会いなど一つもない。
単なる偶然にしてしまうか、それを必然にするかで、
人生は大きく変わる。
縁を活かすには、じっとなどしておれない。