和久傳の想い | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

和久傳は、明治3年、京丹後の峰山町で、

和久屋傳衛門が旅館として創業した。

この地は、江戸時代から丹後縮緬(ちりめん)で栄え、

訪れる商人に宿泊や会合の場として利用された。

峰山が誇る老舗旅館として100年以上も続いたが、

縮緬産業の陰りに伴い、経営が難しくなった。

女将の桑村綾さんは、旅館から料亭に転換する決断をし、

老舗料亭が競い合う、京都市内に単身乗り込んだ。

 

昭和57年に京都市内の高台寺近くに「高台寺和久傳」として移転。

現在の料亭として新たにスタートした。

その後、「室町 和久傳」、

京都駅の上に立地する「京都 和久傳」などを展開している。

細工を凝らした懐石料理を提供する老舗料亭の中で、

日本海に面した港に揚がった魚や山で採れた旬の食材も

陸送で数時間で京都に着くという点に着目し、

創業の地である丹後峰山の名物、囲炉裏の蟹焼きをはじめとした、

季節の素材の味を活かした「野趣」が好評を博した。

本質を変えずに時代に応じて変化して行く「不易流行」を方針とし、

料亭の味を「おもたせ」として提供する「紫野和久傳」を創業。

京都だけでなく、各地の百貨店や通販でも販売している。

 

京都で成功を収めても、女将の視線の先には、

いつも創業の地、京丹後があった。

地域活性の一助として、京丹後に物販商品の工房の開設したほか、米、野菜、果物などの栽培を行ってきた。

それでも女将は満足していなかった。

京丹後を出て行くとき、署名活動までしてくれて、

引き留めてくれた地元に恩返ししなければという思いがあった。

どうすれば京丹後をもっと活気づけられるか思案していた。

まず森を作ろうと考えた。

9000坪の土地に、多種類の樹木を混ぜて植えた。

植物生態学の権威、宮脇昭さんの指導を仰いだ。

女将の人脈は半端ではない。

女将の発想は半端ではない。

 

混植、密植して生き残った樹木が本物だ。

56種類30000万本の木々が、10年で大きく育ち、

和久傳の森を作ってくれた。

その森の中に、食品工房を作った。

地元の人が働く場になった。

さらに、そこに美術館を作り、レストランも作った。

レストランの名は、「MORI」。

イタリア語で「桑」という意味だ。

レストランでは、地元食材を使った料理、

和久傳自慢の惣菜や和菓子が食せる。

 

東京一極集中が加速する中、

地域社会を再び蘇らせるには、

人の想いこそが強い原動力になる。

女将、桑村綾さんが綾なす数々のことは、

京丹後の未来を明るく照らすにちがいない。

 

(若女将・娘の桑村祐子さんと、女将で母の綾さん)

(開発前の和久傳の森)

 

(いまの和久傳の森)

(獲れたての野菜を、だし汁ジュレで包んで)

(オリジナル楽磁器で炊き立てごはん)

(和久傳名物のひとつ季節限定の「希水」

笹のエキスとオオバコを主に、リンゴの香りも)

(女将お薦めの山椒の実ソーダ)