落語家の柳家花緑さんの人生は、顔で決まった。
母の喜美子さんは、人間国宝(重要無形文化財保持者)の
落語家・柳家小さんの娘で、なんとしても父親の跡継ぎを育てたかった。
兄の十市さんは、「色白の鼻の高い貴公子のような面差しだったから」
落語家に向かないと断念した。
母は、バレリーナになりたかったという夢を託した。
兄より2年後に生まれた花緑さんは、すぐに落語家向さと判断された。
「小さいころは、顔もまんまるで、おじいちゃんの小さんそっくりだつた。
やることなすこと面白く、落語家にぴったり」という母の直感が、
花緑さんの進路を決めたのだ。
喜美子さんの思い描いた通り、二人の兄弟は、
それぞれバレエ、落語の道に進んだ。
進んだだけでなく、それぞれの世界で、その天分を発揮した。
兄・十市さんは、モーリスペジャールバレエ団のトップダンサーとして活躍。
弟・花緑さんは、22歳にして史上最年少の真打ちとなり、
以来、華のある落語家として人気を博している。
落語だけでなく、ダンス、ピアノ、芝居に、多芸ぶりを発揮している。
9歳のとき、落語家として初高座。
中学卒業と同時に、祖父小さんに、正式に弟子入りした。
小さんは、師匠でもあり、祖父でもあり、父でもあった。
師匠としては謹言、祖父としては甘言、父としては助言をしてくれた。
前座名は、柳家九大郎。
平成元年、18歳のとき、二つ目に昇進して、小緑と名乗った。
その後、何人もの先輩を追い越して、史上最年少の真打ちとなり、
名も花録と改めることになった。
順風満帆のようにみえるが、
二つ目になった頃から、花緑さんは、迷い道に入っていく。
素直ないい子だった花緑さんは、
師匠や母親が言ったことは、すべて何の疑いも持たなかった。
だが、「僕に期待をかける人は、エゴの固まりなんだ」と思うようになり、
遅すぎた反抗期がやってきた。
母から、アドバイスを受けたり、口出しされるのが嫌になった。
何かにつけて、柳家小さんの孫と言われることが疎ましくなった。
「自分は人まねだけできた。自分らしさとは何か」自問自答の日々が続く。
祖父の偉大さと自分を比較しては、自己嫌悪に陥り、
出刃包丁を持ち出し、死のうと思ったこともある。
そんな花緑さんの様子を察知した母の喜美子さんは
「あなたは絶対大丈夫だからね!必ず成功するからね!」と繰り返していた。
いつもいつも「大丈夫!大丈夫!」と励ましてくれた。
このことばは、花緑さんにとって魔法のようなもので、
出来ないことも出来るような気にさせてくれた。
プラス思考になれたのも母のおかげだと思っている。
真打ち昇進パーティの席上、祖父は大勢の前でこう言い放った。
「よく七光りなどと言われますが、孫だから十四光りですわ!」
この祖父の一言で、何をつまらないことで悩んでいたのかとふっ切れた。
「小さんの孫でいることは、ありがたいことなんだ!」と思い直した。
芸人は、何でも利用して前へ前へ行くべきなのだ。
落語会を若い人の来る場所にしたいと、あれこれアイデアを思い巡らせている。
斬新な試みは話題を呼んでいる。だが、人気商売ゆえの不安がよぎることもある。
そんなとき、「絶対、大丈夫!」という魔法のことばが後押しをしてくれる。
その花緑さんを招くトークライブは、3日後の17日(金)19:30~。
申し込みは、03-6382-9050 アートカフェフレンズ。
(ラジオに出演してもらったとき。
左・花緑さん、右・喜美子さん)