気忙しい年末というが・・・
気忙しくするかどうかは、気持ちの持ちようしだい。
この年末、ふだん集中出来ない読書に耽る至福の時を過ごしている。
またそういう時を過ごせる本に出会ったのだ。
門井慶喜さんの新作『屋根をかける人』。365ページをほぼ1日で読み切った。
建築家ヴォーリズの数奇な人生を傍らでハラハラドキドキしながら見守る感覚だった。
1905(明治38)年、 一人の青年が遠く海を渡り、日本に来た。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ、その時24歳。
アメリカに生まれ、建築家を志していたが、
キリスト教宣教師の講演に感銘を受け、建築家となる夢を放棄してまで、
外国伝道にその身を捧げる決意をした。
運命に導かれ日本へと降り立ったヴォーリズは、
どんな困難に見舞われようとも日本に留まり続けた。
太平洋戦争当時、開戦の気配が濃くなり多くの外国人が日本を離れる中でも、
自らの意志で日本への帰化を選択した。
一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名し、
第二の故郷、近江八幡で83歳の生涯を閉じる。
最初、誰一人として知り合いのいなかったこの国で、
彼は多くの協力者を得て、多岐に渡る活動を行った。
学校、教会、デパートメントやホテル、オフィス、住宅まで幅広く手がけ、
その数は戦前だけで1500件を数えた。
彼が生み出した建築物は、
人を驚かせるかのような建築家の自己主張をよしとせず、
温かい人柄が香る魅力は長い年月を経た今も多くの人の心を捉えて離さない。
そのほかにも、
メンソレータムの販売などを行った「近江兄弟社」の創立。
私立としては日本初の結核療養所であり、
疎外されていた結核患者を救い続けた「近江療養院」の開設。
小さな保育施設から始まり、幼稚園から高等学校にまで及ぶ教育活動。
図書館の運営、出版など多くの文化事業も手掛けた。
二つの祖国の間で揺れ動く人生だったが、
戦後まもなく、天皇制維持のため一役買ったことは、あまり知られていない。
著者の門井さんは、この小説のラストシーンを描くため、歴史小説家になったという。
確かに、感動と納得のラストシーンだ。
ヴォーリズは言う。
「家には屋根がある。屋根は、アメリカ人でも、日本人でも、ペルシア人でも、
アフリカ人でも、等しく風雨から守る。その下に温かい団欒の場を作る。
私たちは、地球そのものを覆う広大な一枚の屋根をかける人になりましょう」
彼は、屋根をかける人だったのだ。
(我が母校・明治学院チャペルもヴォーリーズの建築物。
ヴォーリーズは、ここで結婚式をあげた)
(晩年のヴォーリーズと満喜子夫人)