鈴木明子は、すごい! | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

(2009.4.9ラジオビタミン出演時)


 フィギュアスケートの鈴木明子さんが、

全日本で初優勝し、ソチへの切符を手にした。

フリーを滑り終えたあとの満足感に満ちた笑顔と感涙。

思わず、もらい泣きした。

自分に、自分で拍手を送りたい気持ちだったことだろう。

 

 1985年3月28日、愛知県豊橋市生まれ。

父は、割烹料理店の板前。母はその店の女将。一人娘だ。

昨夜、和服姿の母が観客席にいた。

大会直前、ジャンプが飛べず、気落ちしていた明子さんに、

母は、「私のために滑って」と言ったそうだ。


 フィギュアを始めたのは、6歳から。

 休日には、弁当を2個持参して、1日中滑っていた。

 幼いころから、完璧主義だった。

小2の時、地元のリンクが閉鎖となり、名古屋のリンクへ変わった。

学校から帰ると、母にランドセルを渡し、スケート靴を受け取って、

名古屋へ一目散。片道1時間半かけて、リンクに通った。

2001年(高1)、2002年(高2)、

2年連続で全日本選手権4位になり、全日本強化選手に指名された。

2003年、仙台にある東北福祉大学へ進んだ。

荒川静香さんや本田武史さんたちを育てた

長久保裕(ひろし)コーチに教わりたかったからだ。



豊橋から仙台へ。初めての一人暮らしだった。

練習も、一人暮らしの生活も完璧にこなそうと気負った。

「絶対太るまい」の思いが嵩じて、しだいに食べられなくなる。

激ヤセで、48キロから32キロにまで落ちこんだ。

食事を取るというあたりまえのことが出来ないことで、

自己嫌悪になり、睡眠障害に苛まれた。

皮下脂肪もなくなり、夏でも寒くてしかたなかった。

「どうしたの?」と、痩せた体のことを聞かれるのがいやだったから、 

人に会いたくなかった。

豊橋の実家に戻り、病院に行ったら「摂食障害」と診断された。

出場が決まっていたスケートカナダ辞退を連盟に告げる時が辛かった。 

電話を切ってから号泣した。

「スケートが出来なくなったら、自分でなくなる」。初めての挫折。

選手生命どころか、命すら危ぶまれた。

添い寝してもらった母から

「無理して食べなくてもいいよ」と言ってもらえた。

3食無理して食べなくても、

おなかが空いた時だけ食べるようにしたら、少し楽になった。

2003年11月、大学に戻ったが、もがきは続いた。

リンクに立っても体がふらつく。体力は小学生並みに落ちていた。

実績と練習の積み重ねがものを言う世界で、ブランクは致命的だった。

そんな鈴木さんに、長久保コーチは、

「いつかスケート出来るようになるよ」と言ってくれた。

このコーチについていけばいいと思った。

昨夜、長久保コーチも、「初めて泣かせてくれた」と涙を流していた。



立ち直りのきっかけは、

2004年、同門の荒川静香選手の世界選手権・優勝だった。

その日は、鈴木さんの19歳の誕生日だった。

病気を克服して、リンクに戻りたいと切実に思った。

練習は裏切らないと、少しずつ、少しずつ、自分を信じて練習した。


 2006年、地方大会で地道に結果を出し、連戦連勝。

2007年は、出場した大会7試合ですべて優勝の快挙!

2008年.3月、オランダで開かれた国際大会でも優勝!

全日本選手権でも5位入賞した。完全復活だった。

そして、2009年、

バンクーバーオリンピックでは8位入賞を果たした。



『摂食障害を経験したことで、あたりまえのことが幸せに思える。

 ま、いいか」と思えるようになった。

 試合でリンクに立つ前、

 緊張はするが「生きている証拠」と思えるようになった。

 摂食障害があったから、今の自分があると心の底から思う。

 ただ単に、技をこなすスケートはしたくない。

 魂が感じられるスケートをしたい』

5年前、インタビューした時、彼女はこう語っていた。

ソチでの滑走が待ち遠しい。